魔の絵(3)

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この奇妙な申し出に対し、両親がそれぞれどのような反応をするか……私は注意深く観察していた。父親の表情や態度に格別の変化はなかった。「なんだそんなことか。好きにするがいい」とでもいった感じだった。一方、母親には変化があった。彼女は明らかにこの提案になにかしら心を動かされたようだった。再び私を直視するようになった。その熱心な目つき、そのかすかなうなずき。そうした態度の微妙な変化が彼女の動揺・興味・関心……そうしたものを示していた。「ははあ」と私は思った。「もしかするとこの人は……」

「お母さまは絵を描く人ですか?」
彼女は非常に驚いた様子だった。直感で聞いてみたにすぎない。しかしその憶測は当たっていた。母親は私立の美大を卒業していた。自分の娘には「画家やイラストレーターになどならなくてもいい。でも絵画制作を楽しめる人になってほしい」という願いがあり、幼い頃から絵筆を握らせて水彩やアクリルガッシュを教えていた。その甲斐あって、長女は小学生時代にはとてものびのびとしたいい絵を描いていた。しかし中学生になると変化が現れた。絵を描くことはせず、漫画を描くようになった。最初は好きなキャラクターを模写していたようだったが、そのうちにコマ割り漫画を描くようになった。

「どんな内容のコマ割り漫画でした?」
ふたりとも知らなかった。「長女が見せないのか?」と思ったのだが、どうもそうではないようだ。父親はもともと絵や漫画に興味などない。なので彼が知らないのはまあ仕方がないとして、絵画制作の手ほどきをしてきた母親がどうして漫画の内容を知らないのか。あれこれ聞いているうちに、ふと母親が漏らした言葉があった。
「どうしてあんなものに夢中になってしまったのか……」

その言葉であらかたの疑問が解けたように思った。母親は失望したのだ。彼女にとって漫画は「あんなもの」だったのだ。彼女がこよなく愛する画家とはルノアール、ドガ、ゴッホ……印象派と呼ばれる油彩画家たちだった。色彩を使わない漫画に興味などなく、そればかりか眉をひそめるような制作だったのだ。
次第に追い詰められてゆく長女の孤立感がかいま見えたように感じた。加えて長女より7歳下の妹はダウン症だった。長女が中学校に進んだ時点で、妹は小学校に入学していた。その時期の妹に母親がいかに悩み多い生活を送っていたか、これはもう察するにあまりある。長女に構っている余裕などなかっただろう。

「一度もその時期の、彼女の漫画を読んだことはなかったのですか?」
先程の反省もあり、慎重に言葉を選びつつ両親に質問した。しかし「大変な時期だったのだ。それは無理な注文というものだ」と同情しつつ「ただの一度も見ようとしなかったのか?」という苛立ちが言葉に滲んでくるのを抑えようがなかった。私が親だったら……大喜びでその漫画を見るだろう。そこに描かれたストーリーを娘と共有するだろう。登場人物の表情、物語の展開、コマの運び、背景の処理……話題は尽きないだろう。

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悩ましい1週間が始まった。私の絵を見せたところで、会ったこともない引きこもり娘がどんな反応を示すのか想像できるはずもなく、また想像しようとも思わなかった。結局、長女は断るだろう。しかしこの提案により、使者として長女の部屋に入った私の絵が拒絶あるいは無視されることはあっても、私自身が目の前でドアを閉められるという憂き目に合うことはない。貧弱な私のプライドが傷つくことはない。

それにしても4人の家庭教師たちを震撼せしめた絵とは、どんな絵だったのだろう。私の興味はそこに集中した。長女はコマ割り漫画の世界に没入するような娘だ。彼女はストーリーテラーなのだ。……ということは、その絵に描かれたストーリーに家庭教師たちは震え上がったのかもしれない。「面白いな」と私は思った。一人目を退散せしめた時点で、その後もその効果を楽しむような作戦に出たのかもしれない。二人目、三人目……彼女の作戦は見事に成功したのかもしれない。それはどんな絵だったのだろう。自分が引きこもりだったら……そのような作戦の元に絵を描くのだったら……どんな絵にするだろう。
「確か……どの家庭教師も4回とか5回で来なくなったと言ってたな」
数回会えば、部屋にやってきた家庭教師たちのルックスを漫画の世界で描くことは簡単にちがいない。
「もしかすると」我ながらおぞましい発想が生まれた。「……その世界で彼女たちを惨殺したのかもしれないな」

……………………………………………【 つづく 】