魔の絵(5)

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両親に対しては(スケッチブックの)「1枚目には絵があり……」という説明をしていた。しかしじつは1枚目に私が描いたのは絵ではなかった。コマ割り漫画だった。

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「引きこもり娘にスケッチブックごと渡す」という作戦はすぐに立った。そこで私は街の画材店に出かけて行って、F4のスケッチブックを買った。「スケッチブックの定番」とでも言うべきこのサイズのスケッチブックには、じつに様々な種類がある。値段もまちまちで500円から2000円以上もする高級紙まであり、表紙のデザインや仕様を眺めているだけも楽しい。この時もあれこれと見て迷ったが、「黒い表紙に金の箔押し文字」といったシックでやや高級感のあるデザインのスケッチブックを選んだ。それを目の届くところに置き、「さて何を描くか」と悩んだ。しかし2日たち3日たっても「これを描こう」というアイデアは降りて来なかった。

少々焦った気分になったものの、「最悪の場合はこれを」という方策は浮かんだ。いよいよなにも降りて来なかった時は、再び両親と会う日の前夜に「アリス」を描こう。フリーハンドでコマを4個ほど描き、原作スヌーピーのようにサラッとしたペンタッチで「ウサギ紳士を追いかけて、穴に落ちたアリス」を描こう。そう決めた。そう決めたことで、気分が少し楽になった。
なぜ「アリス」なのか。明確な理由があるわけではなかった。退屈な日常生活からポンと穴に入るだけで、紛れ込んでしまった異世界。コマ割り漫画を描くようなストーリーテラーならこの名作に対してどのような反応を示すのか、あるいは示さないのか、それを試したいと思ったのだ。

ところがいよいよ「明日の夜はアリスか」と思っていた日の夜、激しい雷雨があった。ビカビカーッと夜空に電光が走り、そのたびに窓から見える墓石の群が不気味なシルエットとなって浮かび上がった。私はその光景を眺めつつバーボンを飲んでいたのだが……ふとひらめいた。
フランケンシュタイン。……うん。悪くない。なにしろダークだ。アリスより話がグンとダークだ。家庭教師を4人も震撼させた漫画少女にはこれぐらいダークな話の方が反応を期待できると言うものだ。よしよし。これで行こう。

そこで雷鳴をバックミュージックにフリーハンドでコマを描き、フランケンシュタインを描き始めた。冒頭の開始はこうだ。すさまじい衝撃でハッと目が醒める主人公。割れるような頭痛。思わず頭を抱えつつ上体を起こしてみると、自分は金属のベッドに乗っており、ベッド脇には黒焦げになった男が転がっている。ものすごい落雷だったらしく部屋はめちゃめちゃで、天井の一部には大穴があき、そこから雨が降り注いでくる。なにがなんだかわからずベッドから降りた主人公はふと自分の腕を眺め、それがツギハギだらけであることを知ってガク然とする。

この冒頭1ページにタイトルはなく、物語の説明もない。次の2ページにも、この漫画の説明はなにもない。スケッチブックの真ん中に簡単なメッセージがあるだけだ。
「あなたに絵を教えてほしいと頼まれた者です。もしその気になったら、3枚目に追加をお願いします。それはこの漫画の続きでもいいし、メッセージでもいいです。何日かかってもいいですし、何日か経過して「その気になれない」と思った場合は、そのままスケッチブックを戻してもいいです。どのような内容であろうとも、また結果であろうとも、それを見るのは私だけです。だれにも見せません。その点はどうか信頼してください。なおスケッチブックを戻す気になったら、メールをください。アドレスは以下のとおりです。私の名刺も同封しておきます」

そんなわけでフランケンシュタインをイメージして描いた冒頭シーンだったが、1ページにも2ページにも「フランケンシュタイン」という文字はあえて書かなかった。その冒頭シーンを見た引きこもり娘がどんな反応をするかまったく予想できなかったし、そもそも彼女がフランケンシュタインを知っているのかどうかさえ、わからなかった。なんの反応もなく、スケッチブックも返って来ないかもしれない。その場合は、スケッチブック代だけを両親に請求してこの件は終わりにしよう。たぶんその確率が一番大きい。……そう思っていた。

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1週間が経過した。引きこもり娘からはなんの連絡もなかった。さらに数日が経過し、父親からメールがあった。
「返答なしです」と私は返信した。「この件は終わったな」と思った。

その数日後、講義の後でふと飲みたい気分になった。自宅近くの居酒屋に寄り、カウンターで飲みつつあれこれ考えた。ホロ酔いで帰ってきた私は、玄関先で立ちすくんだ。ドアに立てかけられた茶封筒。一見して中身はスケッチブックだとわかった。

……………………………………………【 つづく 】