魔の絵(12)

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母親の背後に人影があり、父親かと思ったがそうではなく店員だった。彼女は微笑して席についた。ひとりでここに来たことも意外だったが、その微笑には驚きさえ感じた。ただの社交辞令的な微笑なのだろうが、それにしても笑顔を見たのは初めてのような気さえした。

彼女は机上の冷酒ボトルをチラッと見た。「私にも同じものを」と言い、「おつまみはメニューをゆっくり拝見して」と店員に伝えた。そのやりとりを見て「この人はもしかして酒飲みか?」と思った。すごく意外だった。
すぐに冷酒とガラス猪口が運ばれて来た。私が使っていたガラス猪口は薄い緑色だった。肉厚の円筒形で、なんの装飾文様もないシンプルな猪口だったが、ガラス特有の清涼な透明感があり冷酒にはぴったりだった。彼女のガラス猪口は同じ種類で、薄い桃色だった。なかなか気が利いている。猪口のデザインや材質に注目したことなどなかったが、薄い桃色のガラス猪口には「ひとつほしいな」と思わせるほどの魅力を感じた。どことなくセクシーなものを感じさせる猪口だ。

私は自分でも自覚するほどに緊張していた。彼女の猪口に冷酒を注ぎ、お互いに軽く猪口を持ち上げて乾杯の仕草をしたときもいったいなんの話から切り出したものやら、見当もつかなかった。「まあこの際、なんでもよかろう」と思い、つまみでも提供するような気分で、彼女が口に運んでいる猪口をほめた。「自分でその猪口を使おうとは思わないですが……」と言い、彼女がその猪口を手にしている様子を見て「桃色がいっそう華やいでいるように見える」とほめた。自分でもいったいなにをしゃべっているのかよくわかっていないような気分だった。しかし猪口をほめ、その流れで彼女をほめたことはなにか効果を発揮したのかもしれない。彼女は笑い、「主人は全く飲めない人で……」と言った。なんとなくだが「やはり」と思った。

彼女は続けた。学生時代は、夫婦で酒のグラスをゆったりと傾けるシーンを夢見ていた。しかし結婚相手はまったく飲めない人だった。結婚直後は、産まれてくる子が女の子と知って、母と娘でイーゼルを立てて絵画を描くシーンを夢見ていた。しかし娘が興味を持ったのは絵画ではなく漫画だった。
「人生なんて、上手くいかないことばかり」
そう言って笑った。
「だから面白い、という考え方もありますよ」と私は言った。「……なにもかもスラスラとうまく行く人生だったらどうします?……退屈でどうしようもない人生かもしれないですよ」

ふと思い出した外国の短編小説があった。「もうほとんどその内容は忘れてしまったのですが……」と前置きして、記憶にある内容を語った。大富豪のひとり娘。どこに行ってなにをするにしても、ちやほやされる日常。わがままも次第にエスカレートし、大学を出ると就職もせず世界中を単独旅行したいと言い出した。隣町にでも遊びに行くような軽装で旅客機に乗り込み、思いつくままに一流ホテルをめぐり歩いた。支払いはすべてカードまかせ。すべての友人知人は彼女の生活を羨望したが、本人は次第に生気を失ってゆくようなルックスに。噂を聞き、「そんな馬鹿な」と専用ジェット機に乗り込み、ホテルに駆けつけた父親。しかしそこで彼が久々に見た娘は、病的に肥満し反応が薄い女だった。

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私は話を一旦止めて、彼女を見た。そんな必要など全くないことは十分にわかっていた。彼女は目をうるませるほどに熱心に話を聞いていた。話を止めた理由は別にあった。なんのつまみもなく冷酒のみをぐいぐいと飲んでいる様子に、少し危険を感じていた。酒が好きなことも、酒に強いことも、話にすごく興味を持っていることも、その飲みっぷりを見ればよくわかった。しかし目のうるみや頬の紅潮を見るにつけ「なにかつまんだ方がいい」と思った。でないとヤバイ。そう判断して話を止め、店員を呼んだ。メニューを見て刺身とサラダを頼んだ。彼女を見ると「まかせます」と言って笑っている。ほろ酔いでメニューに視線を走らせるのもおっくう、という感じのようにも見えた。玉子焼きを追加した。

店員が下がると、彼女は話のつづきをねだった。私は続けた。
父親は娘と会って愕然とした。「いますぐに家に連れて帰ろう」と判断した。「家に帰ったら立派な医者に見せ、立派な結婚相手も探してやろう」と娘に言った。それですべて解決したように思った。娘は頷いた。「トイレに行く」と言って立ち、ふりかえって「パパ、ありがとう」と言った。その部屋を出て隣の部屋に行き、そのままベランダに出て飛び降りた。その部屋は地上十数階で、即死だった。

たまたま思い出したので話したにすぎないのだが、この話は彼女にかなりショックを与えたようだった。彼女の顔色を見て「まずかったか」と思った。この件では失敗ばかり重ねているような気がする。妙な話をしてしまったことをわびた。彼女は首を振った。
「この話の教訓はなんでしょう?」
「教訓?」苦笑しないように注意した。この人は小説には必ずなにか教訓が含まれていると思っているのだろうか。
「……なにしろ小説ですからね。すべての小説になにか教訓があるわけではないです。ただこういう結末にしたかっただけかもしれません。小説なんて、そんなもんですよ」
彼女は微笑し、私は心持ちほっとした。
「じつはあの子の自殺未遂で、私たち夫婦は何度苦しんだことかわかりません」
なんと答えていいのかわからず黙っていると、彼女は続けた。
「この話、もう少し話してもいいですか?」
「もちろんです」と私は言った。「我々は酒を飲んで話をするためにここにいるのです。話してください」

…………………………………………  【 つづく 】

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