魔の絵(16)

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「自分の耳を疑う」という言葉がある。まさにその状況だった。室内を流れているオールデイズがスッと耳から遠のいた。カフェオレのカップに伸ばした右手の指がかすかに震えているのに気がついた。
「長女に絵を教えてほしいと頼まれました。次女はダウン症と聞いてます」
緊張のせいか声がかすれていた。

お坊さまもなにかを察知したのだろう。彼は無言で空になったドーナツ皿のあたりを見ていたが、顔を上げて周囲を見回すようなふりをした。我々は無言で頷きあって立ち上がり、店を出た。私はいつものように家に向かって歩くつもりだったが、彼は逆方向の駅に向かい、私を手招きした。駅前にタクシーが常駐している。
「よかったら一緒にどうです?」
もちろん異存はなかった。

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お寺も自宅も駅から徒歩15分ほどの距離だが、駅前でタクシーに乗るのも、お寺に行くのも初めてだった。10分後にはお寺の応接間でソファーに座っていた。
「檀家と寺の関係というのは、ちょっと特殊なものでしてね」と彼は言った。「なるほど話はそこから入るのか」と私は思った。
「……檀家さんのプライベートは、たとえ知っていたとしても、話すわけにはいきません」
「そうでしょうね」と私。「……しかし私はプライベートに首をつっこもうとしているのではないですよ。そんなことに興味はないです。娘が一人なのか二人なのか、その事実を知りたいだけです。そんなことはプライベートでもなんでもないでしょう?」

お坊さまは少し黙った。なにかを思案している風情だった。
「一人でもあり、二人でもあります」
私は笑った。「禅問答をするつもりはないです」
彼も笑った。しかしすぐに真顔に戻ってつづけた。
「こんな話を聞いたことがありますな」と彼は言った。「なるほどそういう説明にするのか」と私は思った。
「……あるところに平和な一家があった。父と母と、ひとり娘の3人家族だった。ところが娘はなにかが原因で、精神を病んでしまった。しかし父と母は別のことで不仲となり、日常的に口論が絶えず、自分たちの争いで手一杯だった。娘は放置された。娘の精神はますます病むようになり……」

「あっ」と私は声をあげた。「……多重人格」
彼は黙って頷いた。我々はしばらく無言だった。
「それにしても、ものすごく慎重な人だな」と思わざるをえない。このお坊さまは自分の寺の個室で、我々の他にはだれもいないことを承知で、わざわざ「たとえ話」のような話にして、声をひそめて語っている。二重三重にガードを張って用心しなければならないことだろうか。それともなにかを恐れているのだろうか。

「つまり……娘さんの中に、もうひとりの人格が生まれてきたというわけなんですね?」
彼は無言で頷いた。
「その新たな人格が、ダウン症の娘だと?」
「詳しくは知りません。私にはよくわからない症状です」
彼は私の視線からフッと逃れるように視線を外してそう言った。直感で「なにかを隠している」と思ったが、もちろんそれを追求することはしなかった。
「私に絵を習わせたいと希望された話は、御存知でしたか?」
「知っています。近所にそういう人はいないか、と聞かれたので、そう言えば、という感じで紹介しました」

「そういう人」とはどういう人なのだろうと思ったが、それを追求することもしなかった。私は人をデッサンすることが好きなので、ボディ・ランゲージでおおよそのその人の気分を察することができる。彼の態度は微妙に変化していた。「ここまでは話した。もうこれ以上は話したくない」といった感じだった。私は引き上げることにした。

…………………………………………  【 つづく 】

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