魔の絵(17)

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若干屈折した自分勝手な心理だとは思うのだが、依頼者の家庭に重大な問題の数々が内包されており、それを知るにつれて私の心は軽くなった。早い話が「こんな状況の依頼者だ。いつ仕事を降りてもなんの問題もない」と思ったのだ。言い換えれば「いつでも逃げられる」と安堵した。

人間の心理とは不思議なもので、「いつやめたっていい」という自己正当感が心の支えとなり、この仕事の終わらせ方に私を集中させる結果となった。告白するが、私は仕事の遂行にもはや熱意はなく、ただ多重人格者なるものに会ってみたかったのだ。どのような状況で人格がすり替わり豹変するのか、見たかったのだ。見た瞬間にショックを受けるかもしれず、それは私のトラウマとなってしまうかもしれない。それでも見たかったのだ。

しかし目下の状況としては長女に会える可能性はなく、それどころか依頼当初からの謎はなにひとつ解けていなかった。長女に会った4人の家庭教師たちは、なぜ4回程度でギブアップになったのか。彼女たちが言う「気味の悪い絵」とはなにを描いた絵だったのか。

そしてこれをどうするか。私はスケッチブックを改めて眺めた。長女はこれを持ってどこかに外出するという。「このスケッチブックに発信器でもしかけたい気分だな」と思って苦笑した。現実的に発信器は無理だが、「もし娘さんがスケッチブックを持って外出するのを見かけたら」と母親には頼んである。「……携帯に連絡をくれますか?」

なにぶん頼んだのは酒の席でのことであり、彼女は結構酔っていた。しかし人のことは言えない。私にしてもそんなことを頼んだところで、じつはそのような機会が巡って来るとは思っていなかった。実際のところは連絡を受けた時に自宅にいるとは限らず、自宅を遠く離れて首都圏の専門学校で講義している確率の方がはるかに高かった。「その機会はたぶんない」と思ったし、頼んだ翌日にはもうどうでもいい気分になっていた。

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スケッチブックには二度三度と向かってみたが、やはりどうしても漫画の続きを制作できなかった。漫画はあきらめてメッセージにした。
「この手段でなんとか交流の可能性を模索して行こうと思ったのですが、行き詰ってしまいました。私の力量不足でした。本当に申し訳ない。しかし私とは違って漫画表現を真剣に模索しているまなみさんには、他の誰にも描けない特異な世界を描く力があるように思います。ぜひ漫画を続けてください」

スケッチブックを彼女の家の郵便受けに入れた。「やれやれこれで終わった」という安堵感があり、数日後に父親に報告のメールを送った。
迅速に返ってきたメールには「了解した」とあり、「入金口座を教えてほしい」という要件があり、「娘が希望したら続投するか」という質問で終わっていた。最後の質問についてはよく考えてみたが、結論が出なかった。「たぶんそれはないと思いますが、もしそうなったら、改めてそのときに検討します」と返事した。了承の返信があり、その数日後に私が予想していた額のざっと倍の金額が入金されていた。

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1週間が経過した。講義に行くたびに自宅に戻って来た時、玄関先を見てドキドキした。「もしスケッチブックが戻って来たら」と何度も思い、「おいおい、こんなことじゃノイローゼになってしまうぞ」と苦笑した。しかし7日目、8日目、10日目と日数が経過するにつれて、その緊張も徐々に薄れていった。「やはり時間が解決してくれるということか」と思った。日常的な関心事は徐々に他のことに移っていった。母親からの電話は一度もなかった。

スケッチブックを戻してから28日後のことだった。午後6時ごろ、私はやや急足で駅から自宅に戻って来た。その日のうちにやっておかねばならない仕事が重なっており、頭が痛かった。「こりゃ夕食はサンドイッチだな」と考え、駅近くのコンビニでサンドイッチ2個とアーモンドチョコレートを買った。

玄関先で足が止まった。ドアに立てかけられた茶封筒。一見して中身はスケッチブックだとわかった。

……………………………………【 つづく/次回最終回 】

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