甘辛天丼まいたけ課 第1章 こんにちは、まいたけ課(5)

「……あ、待ってください! 米田博士ー!」

美味《びみ》は、米田博士《よねだ・はかせ》と小米田《こよねだ》1号の後を急いで追うが、すでに姿はなかった。複雑に入り組んだ廊下をどう走っていったのか見当もつかない。

(もしかして、これは非常にまずいのではないか……)

誰もいない廊下に一人立ち尽くす美味の心に不安がよぎる。とりあえず回覧板は渡したので業務《ミッション》は完了《クリア》だ。残すは帰還《リターン》のみなのだが、お米ゲートまでの帰り方がさっぱり分からない。見事に迷子になった一時社員、迷子一時社員なのである。

(あ、でも大丈夫だ。さっきみたいにドアを叩けば誰かが出てきてくれるはず)

そう、社会人のタブーとされているガンガンノック作戦をすでに一度決行してしまっている美味は怖いものなしだ。ガンガンゴンゴンすればすぐに帰れる――はずだった。

「シューギョー、シューギョー」

その時、無情にもビル内に終業のベルが鳴り響く!

「あぁ、疲れた」

「1杯飲んで帰ろうぜ」

ドアを開閉する音や歩く音、社員たちの話し声があちこちから聞こえてくる。米部の社員たちはすぐそばにいるはずだ。

「……どなたか、助けてくださいっ!」

しかし、声のする方へと迷路のような廊下を急いで走って向かっても、どこにも誰もいない。もしかしたらマルチバース――別次元――に迷い込んでしまったのか!? さらに見つけたドアはガンガンとノックしてみるが、中はシンとして誰も残っていないらしい。そして、美味が帰宅社員たちの幻影に右往左往しているうちに、ついには声や足音、人の気配すらしなくなった。

「まずい……でも、どこかに残業している人がいるかもしれない……」

乱れたライスヘアーの美味は丸メガネを曇らしながら、廊下を歩き回り、中に誰かがいそうな居室を見つけるたびにガンガンとノックをした。しかし、誰も出てこない。ノックのし過ぎで手が赤くなっている。歩き回って足も痛い。その上、さらに薄暗い場所に迷い込んでしまった。終業のベルが鳴ってどれくらい経ったのかも分からない。

(もぉ……やだ)

涙ぐむ美味の瞳に四角い物体が映った。

「……あれは?」

前方の薄暗い廊下の一角に設置してある四角いそれは、赤く「SOS」と書かれた箱であった。近づくと「緊急時に開封すること」と注意書きがある。今はまさに緊急時である。緊急迷子一時社員の美味は迷うことなく箱を開けた。中に入っていたのは、寝袋や懐中電灯などの遭難用の緊急グッズだ。もちろん備蓄食品もある!

「グー」

美味のお腹が鳴った。焦りすぎて忘れていたが、かなりの腹ペコだ。遠慮なく頂こうと手に取った備蓄食品のパッケージの文字を見て、一瞬で美味の全身が硬直した。

――濃厚海老味ハイテクカンパン――

さらに海老エキス90%入りと書いてある。旨味成分抜群の高級カンパンだ。

「ここでまさかの……海老! しかも90%!」

美味の舌に先日食べた大海老天丼の味が蘇った。「ゴクリ」と喉が鳴る。食べたい……でも……海老郎……。

美味は、唾を飲み込むと、目を逸らしながら海老味カンパンをSOSの箱に戻した。しかし、美味の口の中には、海老の旨味成分が蘇ったままだ。

「……」

無意識に戻したばかりのカンパンをまた手に取った。小刻みに震えながら、カンパンの袋を開けようと美味が指に力を入れた時、

「遅くなっちゃったな」

「早く帰らなきゃ、今日は米ゲートが早めに閉まる日だぜ」

という会話が近くから聞こえた。やはり残業していた社員がいた! 美味はカンパンを放り出し、瞬時に、

「助げで! だずげでー!」

と絶叫しながら、声が聞こえた方向へと闇雲に走っていく。

「何か聞こえた?」

「また米田博士が叫んでんじゃね?」

「だな」

「ははは」

近くにいるはずの社員たちなのだが、どこにいるのか分からない。

「ま、待って! か、帰らないで!」

必死になって叫ぶ声はかすれている。その声を聞いた社員たちは、

「やべっ! 早く帰らないと、米田博士に捕まっちゃうぜ」

と小声になった。急いで走り去っていくようである。足音はすぐに小さくなり、そして、シンと静まりかえってしまった。誰もいない静けさだ。

「グー」

疲れた。お腹もすいた。もはやSOSの箱があった場所はどこか分からない。力尽きた美味はとうとう座り込んでしまった。一日中、迷路を歩き続け、体力が限界に達した美味の目は自然と閉じてしまう。うとうとと寝てしまいそう……いや! ダメだ! 寝てはダメ! 遭難で寝てしまうのは禁物だ!

――しかし、疲労が極限に達した美味は静かにゆっくりと目を閉じていった。そして、夢の世界に入る寸前である。

「おぉぉぉぃ」

遠くから聞こえた声で目がパチリと開いた。

「……てんどーんさーん」

誰かが美味を呼んでいる!

「こっちです!」

美味は、声を振り絞り返事をする。

「てんどーんさーん! 移動しないで、そこにいてくださーい!」

言われた通り美味は、身じろぎもせずそのまま待っていると、「おぉぉい」という声が大きく近づいてくる。そして、ほどなくして廊下の角からひょっこりはんと現れたのは、毒々しい赤色のベニテングダケ――まいたけ課の副社員、森木きの子《もりき・きのこ》である。

「いたいた!」

「た、助かった……!」

美味は思わずきの子に抱きついた。

* * *

きの子の話では、舞田課長から「早く帰りたいから米部の迷路から天堂くんを救出してこい」と指示されたらしい。きの子の特技は、菌類の匂いを嗅ぎ分けることなので、舞茸の匂いがこびりついたプチマルコンを目指して美味を救出できたそうだ。

「米ゲートのところにさ、舞茸を置いてきたんだ。匂いを頼りに帰れるから問題ないよ」

きの子が言った通り、救出場所からほどなくして米型ゲートに到着した。

「プチマルコンが米部で作動しないことなんて、舞田課長は気にしてもないよ。そんなこと知らない天堂さんの方が悪い、くらいに思ってるんじゃないのかな。それに、回覧板を頼まれた時、天堂さんってば、私が行き方教える前に出てっちゃうからさ」

「すみません……」

美味はバツが悪い気分になったが、きの子は気にすることもなく「とにかく帰ろう」と地下1階のまいたけ課の居室へ美味とともに向かった。戻る道すがらきの子と話してみると、第一印象とは違いとても話しやすい。美味は気になることを聞いてみた。

「あのぅ……さっきの緑色の紙飛行機ってなんなんですか?」

「あぁ、あれね。あれは悪いことじゃないよ。そのうち分かるから、今は秘密……ふふ」

きの子は、笑いながらはぐらかした。それ以上は教えてくれない雰囲気である。そんなきの子のベニテングダケの頭を見て、美味はあることを思い出した。

「あ! 早めに聞きたいことがありました! 髪型や服装に社則ってあるんですか? 森木さんと真音《まね》さんは同じような髪型だし、服も柄や色が違っているだけに見えるので、社則があるのかなと思って」

途端にきの子は苦々しい毒キノコの顔つきになった。

「髪型も服装も社則はないよ。ただ、真音ちゃんがさぁ……って、初日からこんな話を聞かせない方がいいね」

そう言うと、旨味抜群の笑顔を美味に向けた。

「まぁ、個性派揃いだけど根は悪い人じゃない、と思うよ。根以外はなんともいえないけどね」

そんなことを話しながら、まいたけ課に戻ると、舞田課長も真音もいない。「先に帰るねーよろぴくー」と書かれたメモだけが残されていた。

「ったく、やっぱ、あいつら根っこの先まで腐っとる! 天堂さん、私らも帰ろう!」

「あ、はい」

きの子と居室を出て、長い廊下を歩いて行くと、芋南瓜茄子蓮根の合同4課の居室からは、楽しそうなカラオケの音が聞こえてくる。

「毎日なんだよ」

きの子は毒づいた。

「実力主義ってやつだからさ、服装も自由だし、社内宴会も問題ないし。でも、自由な分、結果出さなきゃならないからシビアだよね」

「へぇ、そうなんですね」

「あ、そうだ。社則っていえば、ネクタイ着用というのはあるよ。でも、女性は対象外なんだってさ」

海老課の前を通り過ぎたあたりで、天丼ゲートの方から書類を持った女優のような栗毛色の長い髪の女性を従えた海老沢部長が歩いてきた。海老沢部長は、美味たちを認めて赤い薔薇のように微笑んだ。

「お疲れ様。君は……天堂くん、だったね。これから期待しているよ」

キラキラとした笑顔に優しい言葉。舞田課長とは大違いである。美味も笑顔で、

「はい、ありがとうございます!」

と返事をした時、すでに天丼ゲートを抜けたきの子が

「天堂さーん、エレベーター来たよ」

と美味を呼んでいる。美味は、「お先に失礼します」と会釈をし、エレベーターから顔を出しているきの子の元へと急いだ。

「私、エレベーター乗っていいんですか? 舞田課長が他の課も使うから乗らないって言っていましたが」

「乗っていいに当たり前だよ! 舞田課長はね、海老への憧れが歪んだ形になってエレベーター乗らないだけだから。でも、毎日階段を使っている割に痩せないのが不思議だよ」

「そうですね、ふふふ」

美味ときの子は顔を見合わせて笑った。ひと呼吸おいてきの子はさりげなく言った。

「あとさ、同世代だし私には敬語とか使わなくていいからね」

少し照れくさそうにしているその横顔は、毒キノコではなく、美味しい食用キノコの顔である。

「色々とありがとう」

美味の心からの言葉である。ライスヘアー・ミーツ・キノコカット。美味しく、素敵な取り合わせだ。

初日に社内で遭難して救出される珍事を起こした美味は、最後に毒がありそうでなかったベニテングダケに救われたのであった。

第1章 こんにちは、まいたけ課 おわり

※次回は「第2章 真似する真音さん」です。お楽しみに!

(作・浅羽容子)


<編集後記> by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟

浅羽容子作「甘辛天丼まいたけ課 第1章 こんにちは、まいたけ課(5)」、いかがでしたでしょうか?

見た目毒っぽいけど良い人そうな同僚・きの子さんに助けられ、美味、ブラックホールの迷宮・米部から無事生還。よかった! しかし、きの子さんに「根は悪い人じゃない(根以外なんともいえない)」から一転、「根っこの先まで腐っとる」認定された舞田課長と真音さんはかなりクセモノの様子……平穏無事とは行かなそうな美味の会社生活、どうなる? 待て、次号!

ご感想・作者への激励のメッセージをこちらからお待ちしております。次回もどうぞお楽しみに。

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