「今朝、ドンブリゲートの所でぇ、知らない若い男の人に挨拶されましたぁ。スレンダーで透明感があってシュッとしていて超かっこいいんですぅ。あんな素敵な人、天丼部にいたなんてぇ」
ライスヘアーの真音《まね》の頬がピンク色に染まっている。
「でぇ、不思議なことに、その人、穴子課の居室に入っていったんですよぉ~」
少し前から、穴子課の社員たちが徐々に他の課の社員たちの前に姿を現すようになっていた。半透明から不透明――実体ある人間――への変化は日に日に進んでいき、今では姿だけでなく声まで聞こえるようになっている。どうやら以前は誰もいない時間を見計らって社内で行動し、通勤もひっそりと自家用浮遊自動車だったようだ。しかし、今は、堂々と他の課の社員たちのように行動し、通勤も浮遊列車になっているらしい。
乙女の顔になっている真音に美味《びみ》は言った。
「その人って、前に舞田課長が話していた如呂田《にょろだ》さんかもしれませんね」
美味《びみ》は、そんな直感がしたのだ。
先日聞いた米田《よねだ》博士の話から推察すると、穴子サプリの「経時的変化」とは、透明だった穴子の幼生が時間が経ち透明でなくなり立派な成魚に育つのと同様のことだと思われる。穴子課の人々の半透明からの卒業は、つまり「大人になる」ということだ。幼少期かつ思春期かつ反抗期だった穴子課の社員たちが、その時期から脱し始めたことを意味する。そう、穴子サプリを常時服用していた穴子課の人々が、続々と実体を現し始め、「恥ずかしがり屋」からも卒業しだしたのだ。そして、自ずから仕事に対する意識や周囲への態度も変わってきたようなのである。穴子課のナンバー2である如呂田が積極的に他の課の社員たちと交流を持とうとしているのも予測できる。
「あ! 私もその人に挨拶された! かっこいいですよね!? 黒髪で清楚そうな女性と一緒にいましたよ」
きの子も穴子課の社員たちを目撃しているらしい。
「その黒髪で清楚そうなのって、K課長だと思うな」
舞田課長が口を挟んできた。
「最近、課長会議に出席しているのがちゃんと見えるんだよ。黒髪で清楚な女性、K課長が。しかも、ちゃんと発言したりしていてびっくりだよ。人間変わるものだなぁ~」
そう言いつつ、「劇的痩身サプリメント・ゲキレツヤセール」を3粒服用した舞田課長は、舞茸ヘアーを揺らしながら人気ドーナツ店「まるあげドーナツ」の新製品である超特大ドーナツ「ひとみギャラクシー」にかぶりついた。その体型は、以前よりも明らかに太く大きくなっている。確かに、人間変わるものだ。
「そうだ、僕の部下たちに手伝って欲しいことがあったよ。舞茸ラボで収穫した舞茸を穴子課の前の会議室に一時的に置いておくことになったから、みんなにも運ぶの手伝って欲しいんだ」
「全員ですか?」
「うん」
舞田課長は、超特大ドーナツを大きな口を開けて丸呑みにした。
舞田課長は、台車に収穫舞茸を載せて引き、載せきれなかった分を美味たち三人がそれぞれ舞茸が入ったカゴを両手に下げて、穴子課の前の会議室へと向かった。廊下の前方に人がいるのに最初に気がついたのはもちろん美味である。
「穴子課の前に例の黒髪で清楚な女性がいますね、K課長でしょうか」
まさしくそれはK課長である。近づいていく美味たちにK課長も気がついたようである。なぜか居室に入らないでまいたけ課一行が来るのを待っている。
「舞田課長、皆さん、お疲れ様です」
K課長は、丁寧に頭を下げて挨拶をしてきた。
「K課長、お疲れ様です」
間近で見る透明でないK課長は、美味と同じくらいの年齢なようだ。艶やかでまっすぐな黒髪で切長な瞳の細っそりとした女性だった。そのK課長は手に四角い箱を持っている。
「実は、名刺を作ったんです。今更ながらでお恥ずかしいのですが、よかったらもらっていただけますか?」
ちょっと恥ずかしそうに、でも、はっきりとK課長は言った。
「もちろんです」
舞田課長が返事をすると、K課長は、「では、よろしくお願いします」と舞田課長だけでなく、真音やきの子や美味にも名刺をくれた。
「あ……」
名刺を見た舞田課長の言葉が詰まった。舞田課長だけでなく、真音もきの子も名刺を見て驚いた顔をしている。美味だけがその驚きの意味が分からない。
そこに、会議から戻って来たらしい海老沢部長がやってきた。胸ポケットには一輪の赤い薔薇を差している。今日も容姿端麗な王子のようである。毎日のヒアルロン注射のせいだろうか、小ジワが少し改善されているように美味には見えた。
「海老沢部長、お疲れ様です!」
舞田課長がすかさず挨拶をした。海老沢部長は、
「やぁ、舞田課長やまいたけ課の皆さんたち、お疲れ様」
とキラキラと眩しい光線を放ちつつ美味たちの横を通り過ぎた。
「あの……海老沢部長、私、名刺を作ったので……」
去っていく海老沢部長にK課長が声を掛けた。十分に聞こえるほどの大きさの声なのだが、海老沢部長は振り返りもしない。その時、ふと美味は、先日の課長会議でK課長が入室した時の海老沢部長の無表情の顔を思い出した。K課長の方に視線を向けると、うつむき加減になり暗い表情だ。もしや、このまま恥ずかしがり屋に戻ってしまうのでは……そんな危険を感じた美味は、何か別の話をして気分転換させなければ、と思うと同時に口を開いていた。
「あ、あの……K課長、私にまで名刺いただけるなんて嬉しいです。名刺を拝見すると、K課長って、『黒穴ウハ子《くろあな・うはこ》』さんというお名前なんですね。黒穴さんという名字の方、私、初めてお会いしました。かっこいいですね」
すると、海老課に向かっていた海老沢部長の歩みが止まった。くるり向きを180度変えて、こちらに戻ってくる。さらさらと長い髪をなびかせ、極上の笑みである。そして、一輪の薔薇を胸ポケットから取り出した。
「K課長、今、名刺を取りに行こうと海老課に向かっておりましたが、名刺代わりを見つけました。あなたにピッタリのものです。こちらをどうぞ」
長い指で薔薇を器用に回すと、海老沢部長は黒穴課長にその赤い薔薇を差し出した。
「はぁ……」
当惑しながら、K課長――黒穴課長は、海老沢部長から薔薇を受け取り、代わりに自分の名刺を海老沢部長に渡した。海老沢部長は、その名刺をじっと見つめると、とびきりダンディな声を出した。
「黒穴課長、以前からあなたの隠れた才能は感じ取っておりました。半透明になるという恥ずかしがり屋の一面もかわいらしい。同じ動物系食材の課ですから、これからも仲良くやってゆきましょう」
「はぁ、ありがとうございます……」
黒穴課長の顔からは当惑した表情が消え、どこか覚めた様子になっている。
「じゃあ、これで失礼」
海老沢部長は、華麗に方向転換するとステップを踏みつつ海老課へと向かってゆく。そしてその豪華な漆塗りのドアから中へと入っていったとき、ドンブリゲートの方から貫禄のある低音の声が響いてきた。
「あら、皆さん、そんなところに集まってどうしたの?」
やってきたのは、普段リモートホームワークのししとう課の志藤課長だ。久々に出勤してくるところらしい。
「あ、シトーちゃん、今、K課長から名刺をもらってたんだよ」
「あら、そう。私にもくださらない?」
「もちろんです」
黒穴課長からもらった名刺を見て、志藤課長は、「ふふふ……そういうことね」と笑いながらつぶやき、黒穴課長の方を向いた。
「改めまして、よろしく、よね。初めましてみたいなものよ。名刺をもらったお返しに、黒穴課長を囲む女子会でもしましょうか? 真音さん、きの子さん、天堂さん、あなたたちも来るわよね?」
「はい、もちろん!」
皆、笑顔で首を縦に振っている。舞田課長がすぐさま口を挟んできた。
「シトーちゃん、僕も参加する!」
「舞田くんはダメよ。女子会だからね」
その言葉を聞きしおれた舞茸のような顔をする舞田課長に、笑顔の志藤課長が、すかさず、
「舞田くん、安心して。今度、私が二人《サシ》で飲んであげるから」
と言うと、舞田課長は聞こえないふりを決め込み、カートを押して美味たちを置いて先に行ってしまった。
* * *
数日後、志藤課長が主催する女子会が居酒屋くりげで開催された。参加者は、志藤課長、黒穴課長とまいたけ課の女子3人、美味ときの子と真音である。周囲を見渡しても、今日は芋虫マークの集団はいない。会社の話もできそうな状況である。
「では、かんぱーい!」
5人は円卓で栗ビールで乾杯をした。志藤課長がいるおかげで、真音が参加していても、美味もきの子も嫌な気分になることはない。まして、今日のメインは黒穴課長である。話題の中心は、もっぱら黒穴課長だった。
「皆さんとこんな風にお酒が飲める日が来るなんて」
ほどよく酔った黒穴課長は、上気した顔で感慨深げに言った。
「あら、お酒だったらいつでもご一緒するわ」
酒豪の志藤課長が、いかつい顔を緩ませている。美味たちも、笑顔でウンウンと同意した。黒穴課長は少し涙ぐむと、3杯目の栗ビールを飲みながら、語り始めた。
「実は、私、父から『管理職たるもの、常に上を目指さなければならない。どんな手を使ってでも、のし上がってこい! ウハ子、上を目指せ! 父のいる777階まで這い上がってくるのだ!』と言われていたんです。でも、そんなことを言っておきながら、入社と同時に課長職にさせられてしまって……私、何もできないのに……どうしようか、すごく困ってしまって……」
「ちょっと質問です!」
話を遮るように、酔った美味が手をあげた。どうしても疑問に思っていることがあるのだ。
「黒穴課長のお父さんってなんで777階にいるんですか?」
「え? 天堂さん知らないの!?」
黒穴課長の代わりに返事をしたのはきの子である。美味の発言に志藤課長も真音も驚いた顔をしている。
「天堂さん、黒穴課長のお父様はぁ、ブラックホールの社長ですよぉ~」
呆れたような声で真音が答えた。
そう、黒穴課長の父はこの会社、ブラックホールの社長なのだ。剛腕の社長なのだが、対照的に、娘である黒穴課長は大人しく反抗しない真面目な性格であった。逆にいうと融通が効かない性格だともいえる。だからこそ、父の言葉をそのまま受け取り、まずは目の前の敵、穴子課の上位にいる海老課の地位に取って変わらなければならないと思いこんだらしい。しかし、内気なシャイで人見知りの恥ずかしがり屋の性格は簡単に直すことはできない。そこで、自らを目立たなくさせるために穴子サプリメントの開発に着手したという。「K.U」というイニシャルを名乗ったのも、社長の娘だと分かってしまうと目立ってしまうからだという。なので、海老沢部長をはじめ、天丼部の社員は全員、K課長――黒穴課長――の正体をずっと知らなかったのである。
そんな黒穴課長は、4杯目の栗ビールをひとくち飲んでから話を続けた。
「穴子サプリは副作用がありましたし、意外な結果になりましたが、成功したといえます。このサプリは改良して、商品化できればと思っています」
「あら、黒穴課長! やる気が出てきたわね!」
志藤課長は大きな逞しい手を黒穴課長の肩に回し軽く叩いた。
「ありがとうございます。これからは、自分のできることから頑張っていこうかと思って。それに、私、やっと分かったんです。天丼って、ひとつのドンブリに何種類もの天ぷらが揃って出来上がるものだってことを。海老だけでも穴子だけでもいいけど、それだとなんだか物足りないですよね」
それを聞いた美味は、即座に、
「天ぷらだけじゃなく、お米がなくては話になりませんよ!」
と言うと、黒穴課長は「もちろん」と楽しそうに笑った。
「今では、海老課に対して、悪いことをしてしまったとは思っています。が、結局、穴子課の独り相撲でした。でも、B級小海老作戦の罠に引っ掛からなかった海老沢部長のあの笑顔、とても素敵でした。けれど……名刺をお渡しする前と後では……ちょっと……態度が……」
黒穴課長は目を伏せている。「黒穴」という名前を聞いて変わる周囲の態度――大手企業の社長の娘として、今まで味わってきた苦悩が、ほんの少し美味にも伝わった。志藤課長にもきの子も黒穴課長の気持ちが分かったようである。しかし、そんな黒穴課長の機微が伝わらない強者がひとりいる。真音である。
「海老沢部長もいいですけどぉ、如呂田さんの方が素敵ですぅ」
真音は頬を赤くしている。しかも、どんぐりまなこの瞳がハート型だ。これは栗ビールの酔いのせいではないのは確かである。
「如呂田くんは穴子課のホープですからね。私も色々と頼りにしています。そうそう、この前、如呂田くんから聞いたんですが、如呂田くんって志藤課長のファンらしいですよ。憧れるって言ってました。そういう私も、実は志藤課長のファンなんです」
そんな黒穴課長の告白に、
「私もファンです!」
「私もそう!」
「私だって!」
と、美味ときの子と真音も競うように志藤ファンを宣言しだした。それを聞いた志藤課長は、「あら、みんな、嬉しいこと言ってくれるじゃないの」と心底嬉しそうである。黒穴課長は、「ふふ、みんなの志藤課長ですね」と言いつつ、また口を開いた。
「志藤課長のワームホールの企画に、私、シビれました。志藤課長の才気に憧れます。私、自分はまだ課長の器ではないと自覚しています。是非、志藤課長に弟子入りしたいです」
「あら、やだ、ししとう課は私一人で十分よ。弟子入りは無理だけど、アドバイスならできるから、困ったら相談してね」
志藤課長のその声は、貫禄があるが優しい。
「はい、ありがとうございます! でも、せめて、ひとつだけ真似していいですか?」
「何を?」
「私も志藤課長みたいにネクタイを締めたいんです」
「もちろん、そんなの断る必要ないわよ! 女性だってネクタイ締めていいんです。もちろん、男性だってスカート履いてもいいのよ」
「舞田課長がスカート履いてきてもいいんですか?」
「もちろんいいのよ!」
志藤課長はウィンクをしながらネクタイを締め直した。
そして、黒穴課長は、宣言通り次の日からネクタイを締めてきていた――が、しかし! そのほかにもいたのだ、ネクタイを締めるようになった人物が!
「真音ちゃん……また変えたんだね……オシャレンジャー……だね……」
舞田課長は、むにゃむにゃと言い淀みながらも褒めている。
「ありがとうございますぅ。今朝、志藤課長に会った時も褒めてくれましたぁ」
疑うことなく舞田課長の褒め言葉を真音は素直に受け取っているようだ。ネクタイをするようになったもう一人の人物とは……もちろん真音である。しかも、髪型も志藤課長と同じのショートパーマで、緑色のパンツスーツである。ミニ志藤課長といったところか。
「あ、舞田課長、私たち、もう会議の時間ですよぉ!」
朝一番の会議があるようで、舞田課長と真音は急いで出て行ってしまった。まいたけ課の居室に残った美味ときの子は、思わず顔を見合わせた。
「天堂さんの真似をやめてくれてよかったねー。でも、今度はまさかの志藤課長だとは!」
「うん、まさか!」
「今朝さ、私、真音ちゃんと志藤課長が話しているところにいたんだけど」
ベニテングダケカットの頭を揺らして、きの子が笑いを噛み殺したような表情をしている。
「志藤課長が、真音ちゃんに『あら、すっごく似合うわぁ! 真音さんに合うようにアレンジされていて素敵よ! 私のことアレンジしてくれるなんて光栄よ! 今度、おそろいのネクタイをプレゼントするわね!』って言っててさ」
きの子は、耐えきれず、プハっと吹き出した。
「うん、それで」
美味は自然と前のめりになっている。
「そしたら真音ちゃんが『ありがとうございますぅ。ネクタイ楽しみですぅ!』って嬉しそうに返答していたよ」
さすがの志藤課長、真似されて怒るなんて野暮な対応などしない。しかも、さりげなく、真似をしているということを本人に認めさせているところもすごい。
「さすがだね……」
「だね」
美味は、志藤課長の手の平の上で転がされる真音になんとなく憎みきれない親しみのようなものが湧いていた。
「あ、きの子さんに聞きたいことがあった。なんでみんな『黒穴』って聞いただけで、社長の親戚って分ったの? 不思議!」
「天堂さんが知らない方が不思議だよ! 『株式会社ブラックホール』って社長の名前の『黒穴』が由来なんだよ。黒がブラック、穴がホール、でしょ?」
「え! そうなの!」
「しかも、昨年までは社名が『株式会社黒穴』だったんだけど、宇宙規模の会社になるというどでかい夢をぶち上げちゃった社長が会社名を変更したんだよ」
株式会社ブラックホールの旧社名は株式会社黒穴……。株式会社黒穴であれば、大企業だ。美味ももちろん知っている。そう、ブラック企業だからブラックホールという社名だった訳ではないのである。
しかし――ブラックホールに変わったからブラック企業になってしまう可能性がゼロであるとは言い切れない――という思いが心に浮かび、美味は丸メガネのテンプルをさりげなく触った。
(第3章 クリスタルなANAGOたち おわり)
※次回は「第4章 合同4課の決裂」です。お楽しみに!
(作・浅羽容子)
<編集後記> by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
浅羽容子作「甘辛天丼まいたけ課 第3章なANAGOたち(5)」、いかがでしたでしょうか?
社長が黒穴さんだからブラックホール。K.U課長が隠していた名前は黒穴ウハ子。少し穴子課の謎が解け、謎サプリ開発の黒穴課長も迷走からの力強い走り出し。困った真似っ子真音さんの存在もなんとなく受け入れられてきた美味。さて来週からは株式会社ブラックホールを宇宙規模の会社にするため、みんなで一丸となって働く……のかな? 次回は新章突入、「合同4課の決裂」。決裂とは、穏やかじゃありません。何が起こるか、待て、次号!
舞田課長の「ひとみギャラクシー」のおかげでドーナツ食べたくなっちゃったよという方は、ドーナツ食べるのもいいけれどドーナツ小説はいかがでしょうか? 謎の鳩ひとみちゃんも登場・全速力で迷子になる失踪文学、浅羽容子作『イチダースノクテン』はこちらです
ご感想・作者への激励のメッセージをこちらからお待ちしております。次回もどうぞお楽しみに。