甘辛天丼まいたけ課 第7章 新商品ブラックホール(3)

「大丈夫かい? 美味くん?」

正気に戻った美味《びみ》に米田博士が声をかけた。

「はい……大丈夫です」

「このガラスケースは特殊な強化ガラスでできていて滅多なことでは破壊しない。ブラックホールが小さかったのも幸いだった。しかし、もし大きなブラックホールであったなら、強化ガラスを壊して美味くんを飲み込んでいた可能性が高い」

米田博士は美味の顔を覗き込み正気に戻っていることを確認すると、ガラスケースの方を向いた。その視線の先は浮遊する黒いケサランパサランのような赤ちゃんブラックホールである。口をパクパクと動かしてあどけない様子だ。つい、つられて美味もそちらの方に視線を向けてしまったが、先ほどと同じような引き寄せられる魔力のような感覚を覚えすぐに目を逸らし、ガラスケースに背を向けた。赤ちゃんブラックホールを見つめている米田博士がひとりごとのように話し始めた。

「しかし、なぜ美味くんだけが催眠術にかかったようになってしまったのだろうか。私や海老郎《えびろう》は大丈夫なのに……。よし、まずは観察だ。以前に作った高性能老眼鏡をかけてブラックホールを見てみよう」

米田博士は、ポケットから高性能老眼鏡を取り出してかけると赤ちゃんブラックホールの観察を始めた。そして、「なぜだ」とか「どうしてだ」とか盛んに疑問を口にしながら興味深そうに見つめていたが、すぐに無言になった。どこか米田博士の様子がおかしい。魂が抜けたように体から力が抜けている。そして、ゆっくりと漂うような動きでガラスケースへと近づいていった。

「……可愛い……」

米田博士は確かにそうつぶやいた。米田博士の瞳孔が開いている。ガラスケースの中の赤ちゃんブラックホールは、いつの間にか米田博士の正面にいる。ただならぬ背後の雰囲気を察し美味はちらりと振り向いた。

(まずい……!)

米田博士は先ほどの美味の状態と同じである。咄嗟に美味は米田博士に駆け寄りながら叫んだ。

「米田博士!」

美味の肩から海老郎が素早く米田博士の肩に飛び移り、ハサミで高性能老眼鏡を外した。

「……ん? ……あ、え!?」

急に視力が元に戻った米田博士が瞬きを繰り返し、何度か頭を振るった。ブラックホールの魔力から解放されたらしい。

「米田博士、大丈夫ですか!?」

「あ、うん……大丈夫だ……言葉にならないテレパシーを受け取ったような、変な感覚だった……」

心配そうに米田博士の頬をハサミで撫でていた海老郎が、ハサミを3回鳴らした。何か伝えたいことがあるようだ。米田博士が近くにあった紙を海老郎に渡すと、海老郎はエビエビとそれを切り始めた。切り終わったそれは、

「視力が良いと影響を受けるのでは?」

と読める。米田博士は不思議そうな顔を美味の方を向けた。

「私の高性能老眼鏡は、視力3.0程度に見えるようになる。もしかしたら、海老郎の言う通り、視力が良いことによってブラックホールから未知の何かが伝達されて、このような状態に陥るのかもしれん。――ところで、美味くん、君のそのメガネも同じくらいによく見えるのかい?」

美味は静かに首を縦に振った。

「米田博士と海老郎、この特別実験室のドア付近に立ってください」

海老郎を肩に乗せた米田博士は美味の言う通りに移動した。美味の立つ位置から10メートル以上離れている。美味はトレードマークの丸メガネをそっと外した。そして、米田博士たちを裸眼で見つめながら静かに話し始めた。

「実は――私、見えるんです。ここからでも。海老郎の体の微細な海老模様もハッキリと見えるし、米田博士の毛穴も見える。鼻毛の数も簡単に数えられます。それに、着ている白衣の繊維さえも全部見えてしまうんです」

話し終えた美味は、小さなため息とともに丸メガネを掛け直した。

「なんと……では、そのメガネは……」

「視力が良過ぎて全て見えてしまい、過剰な視覚情報のため疲労が倍増……いや、何百倍増してしまうんです。そのため、普段は視力を落とすためこの丸メガネをかけているんです。でも、これをかけたとしても、視力は3.0以上です」

丸メガネのテンプルを美味は少し触った。

「それは知らなかった……」

米田博士はそう言うと、海老郎はハサミを3回鳴らした。

* * *

ブラックホールとは、全てを飲み込んで「無」にしてしまう。赤ちゃんブラックホールといえども同じである。危険なことに変わりはない。美味は、この望んでいない実験の副産物について米田博士から、口外しないようにと言われて、まいたけ課へと戻った。

その翌日のことである。その後のことが気になる美味は、昼休みに米部米課の特別研究室を訪れた。休み時間だというのに、米田博士も海老郎もマルコンに向き合って真剣な表情だ。

「お邪魔します。天堂です」

「あぁ、美味くん、いいところに来た」

米田博士が顔を上げた。海老郎は美味にハサミを3回鳴らし挨拶すると、すぐにマルコンに向かい作業を再開している。

「米田博士、海老郎、あれからどうしましたか?」

「うん、今、二人で対処法を模索している最中だ。それよりも、大変なことになってしまっている」

「え? どうしたんですか?」

「実は……ブラックホールが増えてしまったのだよ」

美味は、耳を疑った。まさか、増えているとは!

「え! 本当ですか」

「うむ……見せたいのだが、美味くんには見せられないな……」

視力のよい美味が直接ブラックホールを見てしまうとまた悪い影響を受けてしまうことを米田博士は懸念したのだ。

「大丈夫です。私、今日、これを持ってきたんです」

美味が取り出したのは、ブラックホールのごとき黒さの大きなサングラスである。

「これをかければ、細部が見えにくくなるんです。だから、大丈夫ですよ」

「それは良かった。では、あちらの居室に行こう」

サングラスをかけてパンダのようになった美味は米田博士に連れられて奥の特別実験室に入った。

「こ、これは……!」

目の前のガラスケースの中を見て、美味は驚愕した。米田博士の言う通り、小さなブラックホールが増えているのだ。

「どうしてこんなことに……!?」

「うむ……昨日、美味くんがまいたけ課に戻った後のことなんだ」

米田博士と海老郎は、昨日の午後に色々と調査したが、簡単に対処できる方法が見当たらなかったそうだ。困った米田博士は、どうしたものかと思案しながら赤ちゃんブラックホールを見つめていたらしい。そして、普段はめったに愚痴を言わない米田博士だが、思わぬ苦境に立たされたため、つい言ってしまった。

「はぁ……本当に嫌だ。もう疲れてクタクタだ……うんざりだよ……」

愚痴を漏らした瞬間、赤ちゃんブラックホールが米田博士の方を向き、口を大きく開けた。そして、もぐもぐと何かを食べているような素振りを見せている。「これはおかしい」と米田博士は思った。もちろん、赤ちゃんブラックホールの様子はおかしい。しかし、それだけでないのだ。自分自身もおかしいのだ。米田博士は、なぜかスッキリとした爽快な気分になっていたのである。これはもしや……そう思った米田博士は、今度は故意につぶやいてみた。

「海老沢部長は性格が悪くて、かっこつけたがりで、上司にうまく取り入るようにするKusoGG《くそじじい》だ」

今度は悪口である。すると、またもや、ブラックホールがこちらを向き口を大きく開けた。先ほどと同じように何かを食べているような口付きだ。そして、それと同時に米田博士も、今回も妙にスッキリとした気分に変わっていたのだ。

「あ!」

変化はそれだけではなかった。ブラックホールが分裂し、2つになっていたのである。

「えっ!? そんなことがっ!」

驚く美味に米田博士が話を続けた。

「観察と実験の結果として、どうやらブラックホールは愚痴や悪口のたぐい、また、罵詈雑言なども食べるらしい。そして、分裂して増えるのだ」

「なんということ……」

「しかも、愚痴や悪口を吸い取られた方も気分が良くなるんだよ。もっと愚痴や悪口を吐き出して食べてもらいたい……そんな気分になってしまった。なにやら麻薬のような作用だ――それで、少々実験をし過ぎてしまい増えてしまった」

美味はサングラス越しに赤ちゃんブラックホールたちを見た。ふわふわと浮く姿は、あどけなく、やはりどこか可愛らしく感じてしまう。しかし、ブラックホールは、その口から食べたものを「無」にしてしまう。愚痴や悪口が無になるのはいいのだが、きっと本当に食べたいものはそれだけではないはずだ。昨日、美味に向けた闇のような口の中を思い出していた。

「怖い……」

「うむ。さらに、それだけではないのだよ。ブラックホールは、空腹が限界に達すると共食いをするのだ。ほら、そこを見てご覧」

米田博士が指差す方には大小2つのブラックホールが浮かんでいる。大きなブラックホールが小さいブラックホールに近づくとふいに口を大きく開けた。

「あ! 吸い込まれていく!」

食べたのだ。大きなブラックホールは満足そうにくるくると回ってダンスをしているようだ。驚く美味の方を米田博士が向いた。

「美味くんにお願いしたいことがあるんだ」

「なんでしょう?」

「今回の件は、現在、他の研究開発を一時的に中断し、私と海老郎と100人の優秀な小米田《こよねだ》たちで対処している。しかし、外部の客観的な意見も取り入れたい。マロンくんに手伝ってもらいたいのだが、いいだろうか?」

向けられた米田博士の顔は真剣である。

「マロンは、今、ししとう課の仕事を請け負っているのですが……帰宅して聞いてみます」

「頼む。そうしてくれ」

米田博士はペコリと頭を下げた。

その翌日である。美味は、米田博士の支援の依頼にマロンが「引き受けるワン」と二つ返事をしたことを伝えに、昼休憩に米部米課の特別研究室を訪れた。

「あれ……?」

しかし、居室の様子がいつもと違う。人が大勢いる気配がする。普段は特別研究室には米田博士と海老郎だけで、たまに小米田が数人いるかいないかといったところだ。しかし、その日の居室の中は違かった。美味が居室のドアを少し開けて、中をそっと覗いてみると、10人ほどの人物が米田博士の前に立っているのが見えた。皆、高級そうなスーツを着た中年以降の男性である。おそらく役職付きの丸社員であろう。その中に、ひときわキラキラした雰囲気を放っている高身長の人物がいる。

(あ、海老沢部長だ)

海老沢部長を含めた丸社員のスーツ男性たちの中心に、どこかで見た覚えが小柄で小太りの人物がいる。

(誰だっけ……よく見る顔だけど……)

思い出せない。しかし、この集団に見つかってはまずいというのを感じた美味はドアの影に隠れた。海老沢部長の声が聞こえてくる。

「社長、奥の居室にブラックホールがあるようです」

そのひとことで美味は気づいた。取り巻きに囲まれた人物は、回覧板の最初のページにいつも掲載されている写真と同一人物、株式会社ブラックホールの社長、黒穴大八《くろあな・だいはち》であったのだ。

(つづく)

(作・浅羽容子)


<編集後記> by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟

浅羽容子作「甘辛天丼まいたけ課 第7章 新商品ブラックホール(3)」、いかがでしたでしょうか?

目が抜群に良いのになぜかメガネをかけている美味。その謎がようやく、解けた! のは、いいけど、ブラックホールに吸い込まれそうに。それにしてもブラックホール、人のブラックな言葉を吸い込み、吸い込み、吸い込み尽くしたあとは一体何を? ブラックだけに底知れません。そしてなにゆえ海老沢部長と黒穴社長が特別研究室に。米田博士の極秘副産物では、なかったの? 誰にどんな思惑があるのやら、視力3.0の見え方を想像しながら、待て、次号!

ご感想・作者への激励のメッセージをこちらからお待ちしております。次回もどうぞお楽しみに。

ホテル暴風雨にはたくさんの連載があります。小説・エッセイ・詩・映画評など。ぜひ一度ご覧ください。<連載のご案内>

スポンサーリンク

フォローする