甘辛天丼まいたけ課 最終章 さようなら、まいたけ課(2)

マロンのその言葉を聞き、美味は思わず立ち上がった。

「え……、マロン、どういうこと? それって、冗談だよね?」

マロンの顔つきでそれが冗談でないのは百も承知だ。しかし、美味は信じたくなかった。

「美味ちゃん、ワンは、美味ちゃんとのペット契約を終了したいワン」

もう一度、はっきりと言われてしまった。立ち上がった美味は、マロンの尻尾が椅子の下へとだらりと下がっているのを見てしまった。これは、マロンの発言が嘘ではない決定的な証拠である。

「な、な、なんで! 嫌だよ! 私、やだっ!」

混乱した美味の目には涙がにじみ始めている。

「ワン……」

硬くなっていたマロンの表情が緩み、その目は潤んでいる。

「マロン……」

美味は震えながら椅子に座った。

「マロン、なんで……なんで急に……」

つむった瞳から涙が溢れる。その涙が伝う頬を湿った何かが触った。

「ワン」

温かく、柔らかく、少しだけざらついた感触。それは、マロンの舌である。

「美味ちゃん」

そして、マロンは、まだ子犬だった頃によくしていたように、美味の膝の上に頭を乗せた。美味がその栗色の柔らかな頭を撫でると、下がっていた尻尾が自然と上がってくる。しばらくしてマロンは顔を上げた。

「美味ちゃん、まだ話に続きがあるんだワン」

「……うん。聞きたい」

* * *

自分の椅子に戻ったマロンは、ホット泡コーヒーをひとくち飲むと、口を開いた。

「美味ちゃんのことは、大好きだワン」

始めにマロンはそう言うと、少しずつ区切って話を続けた。

「ワンは普通の犬でないワン」

「うん、そうだよね」

マロンは、万能犬である。犬の他にも、猫や鳥なども万能生物がいる。数は少なく珍しいが海老郎のような万能海老もいる。これらの万能生物というのは突然変異で進化した生物のことを指す。しかし、その進化の度合いは個体差がある。一般生物と比較して多少賢い程度に発達した生物から、人間レベルに発達した生物、あるいはそれ以上の知能を有する生物までまちまちだ。

一般生物を含む全体の数からすると万能生物は少数派で、万能生物だけで人間社会を生きていくのは困難である。しかも、ペットとして長年飼われていた犬猫のような生物は、ペットとしての気質が多少なりとも残っていることが多い。このため、万能犬や万能猫は、人間社会の中でもその才能を発揮してストレスなく生きていけるように、自分の飼い主を選べる権利がある「ペット契約」というシステムができたのだ。

「兄弟がいてもワンはいつも一人ぼっちだったワン」

「うん、その話は、ペット契約の時に係の人から聞いてるよ」

マロンは雑種だ。この現代では珍しいが、野良犬の親から生まれた野良犬なのだ。マロンが「ペット紹介所」に保護された時はまだ子犬だった。一緒に保護された兄弟たちは万能生物ではない普通の犬だったのだが、マロンは違った。マロンだけが、幼犬の頃から人間の言葉を理解し、人間の言葉を話し始めていたのだ。兄弟たちは、そんなマロンに馴染めるはずはない。しかし、いじめることもなかった。いじめられなかった理由は、異端のマロンの頭の良さにあったのだが、それは別の寂しさを作る原因にもなってた。マロンは兄弟から完全に無視され存在すら認められていなかったのである。

保護されてしばらくして、兄弟たちはそれぞれ普通の家庭にもらわれていった。美味がペット紹介所に行った時、兄弟たちの中で残っていたのはマロン一人だったのだ。

「『ペット契約』についてはうっすら知っていたけど、まさか自分が万能犬に選ばれるなんて思ってもみなかったよ」

美味がペット紹介所に行った時には、万能犬についてよく知っていたわけではなく、万能犬が飼いたかった訳ではなかったのだ。ただ一人暮らしが長くなってきて寂しい気持ちが募った時に「気の合う犬がいればいいな」くらいの気持ちで訪れてみたのである。

「ワンは、美味ちゃんを一目で好きなったワン」

マロンは、美味と初めて会った時のことを思い出しているようだ。尻尾を緩やかに振っている。

「ワンは、すぐに分かったワン。美味ちゃんの優しさだけじゃなく、秘めたる情熱をワン」

そう言ってから数秒後、マロンの尻尾が急に止まった。

「――でも、今の美味ちゃん優しいのは変わらないけど、ちょっと違うワン」

耳も少し垂れている。怒っているわけではない。寂しそうな瞳なのである。

「違わないよ! ライスワークも再開して、生活も一応安定しているし、色々頑張っているよ!」

「……違うワン」

しばらくして、マロンは口を開いた。

「確かにライスワークは再開したことは嬉しいワン。いい作品も作っているワン」

心を落ち着かせるようにマロンは冷たくなったホット泡コーヒーをひとくち飲んだ。

「でも、今の美味ちゃんは、『これでいい。ここまででいい』と自分で枠を作ってしまっているワン」

「――!」

そのマロンの言葉に美味は何も言い返せない。少しの間、沈黙が続いた。美味は丸メガネを外して目を閉じた。余計な視覚情報を遮断し、自分の心と向き合うためだ。

確かに、ライスワークは真剣に取り組んではいる。しかし、気持ちが以前と少し違う。自分で、「ここまでやっているからいいだろう」と合格ラインを決めてしまって、それ以上を求めなくなっている。良いも悪いも結果を気にせず突き進む、そんな勢いが衰えているのだ。マロンは勘の鋭い犬だ。美味よりも美味の奥底の気持ちを敏感に感じ取っていたのであろう。そして、いつしか、ライスワークへの情熱のカケラすらなくなってしまう危険を察知していたのかもしれない。美味は目を開いた。

「マロン……マロンの言う通りかもしれない」

美味は認めた。丸メガネをかけていない美味のその表情を見たマロンは美味の心の中の変化が伝わったようだ。マロンの顔から寂しさが消え、晴れやかになっている。美味はゆっくりと丸メガネをかけた。

「マロン、確かにライスワークは真剣ではあるけれど、反面、惰性にはなっているよね。こんなんじゃ、いつまでたっても私のライスワークが芸術として認められないって、ようやく分かった……!」

「ワン!」

「私、初心を取り戻す!」

尻尾を激しく振るパタパタという音が聞こえる。美味の心に、本当の情熱の炎が灯った。

「マロンと私の未来のためにも、もっと自由に伸び伸びとライスワークをしていくよ!」

マロンはウンウンと頷いている。それを見た美味は安心して話を続けた。

「気づかせてくれてありがとう、マロン! これでペット契約が終了にならなくて良かった!」

その言葉に、マロンは嬉しそうに尻尾を振り続けながら答えた。

「ううん、ワンはやっぱりペット契約は終了にしたいワン!」

(つづく)

(作・浅羽容子)


<編集後記> by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟

浅羽容子作「甘辛天丼まいたけ課 最終章 さようなら、まいたけ課(2)」、いかがでしたでしょうか?

前へ前へ、未知の領域へ踏み込み、冒険する気持ちを思い出した美味。よかったよかった……と言いたいけれど、ええ〜っ!? やっぱりペット契約は終了? マロンちゃん、どこへ行ってしまうのワン。この先1週間、語尾は「ワン」でキメて、待て、次号!!

ご感想・作者への激励のメッセージをこちらからお待ちしております。次回もどうぞお楽しみに。

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