甘辛天丼まいたけ課 最終章 さようなら、まいたけ課(5) (最終回)

「おかえりワン!」

「ただいま、マロン。ごめん。話をする前に、急いでマルコンで連絡しなくちゃならないから」

帰宅した美味《びみ》は、一時《いっとき》会社の美味の担当営業でへのへのもへじ顔のへのへのに連絡をするためマルコンの前に急いで座った。超立体画像編集のマニュアル化を引き受けるか、引き受けないか、すでに美味の気持ちは固まっていたので一刻も早く伝えたかったのである。

「……ということで、超立体画像編集のマニュアル化を依頼されたのですが、私はお断りします。理由は、担当業務のマニュアル化は一時社員の契約内容に入っていないからです。正当な理由なはずです。その旨、先方にお伝えください」

こういった内容のマルコン通知を送ると、美味はやっと荒れていた気分がおさまった。マロンは不思議そうな顔をしている。美味は「ごめん、ごめん」と謝ってから経緯を話し始めた。

「ひどいワン」

マロンの尻尾はだらりと下がっている。

「うん。マロンだったらそう言ってくれると思っていた」

「当たり前だワン! 必要な情報だけ提供させて解雇させるんだワン!」

さらに鼻をフガフガとさせている。

「そうなんだよ。一時会社に伝えたけど、どういう反応をされるか……」

美味がそう言った時、

「通知ガ届イテオリマス」

とマルコンから合成音声が流れた。美味とマロンが急いでその通知を開くと、それは案の定、へのへのからの返信であった。

「……天堂さんの気持ちはとてもよく分かります。しかし、それを先方に伝えてしまうと契約終了になってしまう可能性が出てきてしまいます。弊社と致しましては、これを回避するためにも、ここは天堂さんに依頼を引き受けていただくのが一番安全かと……」

へのへのの返信は謙った丁寧な文章だが中身は美味の要望に対する「拒否」の一点でしかない。予想はしていたが、こんなに早くもみ消そうとしてきたことに、美味は呆れるしかなかった。マロンも、

「何もしてくれないワン!」

とヒゲがビョンビョンと揺れるほど鼻息を荒くしている。

「まぁ、残念だけど、へのへのも一時会社も全く役に立たないってことが判明しただけスッキリしたよ」

「どうするワン?」

「うん。正式なルートで伝えられないなら、自分で言うしかない。だって、引き受けても引き受けなくても、結果は決まっているんだろうから。だったら私は『NO』を伝えたい。辞めていったきの子たちのためにも」

美味の丸メガネの中の瞳が燃えている。

「そうだワン! 賛成だワン!」

万能犬であるマロンの賛成を得て、美味は自信をつけた。

「うん。ありがと。でもさ、本当に一時会社もブラックホールも……」

美味の話を遮るようにマロンが口を開いた。

「会社の話は、もういいワン! それよりも、今日の夕食は新メニューだワン!」

そのマロンの言葉に美味は我に帰った。今は、一時社員の天堂美味ではなく、マロンと家族の天堂美味、かつ、米現代美術家の天堂美味に戻っているのだ。会社のことを話す時間はもう終わりだ。これ以上、会社のことを長々と考えているなんて時間の無駄でしかない。

「うん、そうだね。食べよう! お腹すいたよ~」

美味のお腹から「ぐー」と音が鳴った。

次の日である。朝一番で美味は自分から舞田課長に、

「例の件のお返事ですが、一時会社から伝えてもらおうと頼みましたが拒否されました。なので、私から直接お伝えします。超立体画像の編集のマニュアル化業務は、私の一時社員の契約内容には記載されていないのでお断りします」

とはっきりと伝えた。

「……え……!?」

舞田課長はたじろいでいる。舞田課長が決めたことでないのは分かってはいるが、上司の舞田課長が美味を守ろうともしなかったのも事実だ。舞田課長に静かな美味の怒りが伝わったようだ。何も言えなくなっている。代わりに、返事をしたのは真音《まね》である。

「天堂さん! お願いされたことは、ちゃんとやりなさいよぉ~。仕事ってそんなもんじゃないでしょう~」

真音の言いたいことは分かるが、美味は丸社員の真音と立場が違う。それに、おそらく真音はマニュアル化業務が何を意味するか気づいていない、いや、そもそも関心がないのであろう。

「あ、もうこんな時間! 私、会議に行ってきますぅ~」

真音は慌てて居室から出て行ってしまった。まいたけ課に残っているのは美味と舞田課長だけである。気まずい雰囲気の静かな居室に二人きり、である。

「……マニュアルを作ってくれないなんて意地悪だ。中間管理職の僕の立場を分かってくれていない……」

ごく小さい声の舞田課長の独り言が念仏のように漂う居室で、美味は全ての音を遮断する強力な耳栓を耳にはめた。そして、いつも通りに業務を開始した。

* * *

「それでね、マロン、その後の昼休みに米部米課に行って、米田博士にそのことを話したんだ」

美味は、帰宅後、夕食をとりながら会社であったことの報告をマロンにしている。

「それで、どうしたワン?」

「米田博士も海老郎《えびろう》も腹を立ててくれたよ。米田博士は社長に交渉すると言ってくれたの。米田博士がいなければ、この会社は成り立たないくらいだから、社長に提言できる立場ではあるみたい」

「じゃあ、交渉してもらうワン?」

「ううん、それは気持ちだけで嬉しいって伝えた」

米田博士の厚意を断った理由は、有無を言わさず、誰にも守ってもらえず、解雇となったきの子が頭に浮かんでいたからだ。

「……ワン……」

マロンも何か思うところがあるらしく、それ以上その件には触れず、食後の泡ハーブティーを淹れてくれた。その時、

「映像通信ガアリマス」

とマルコンの合成音声が鳴った。応答したマルコンの画面に現れたのは菊代だ。

「あ、美味? 今ちょっといい?」

菊代のひざには万能犬クリームが乗っていて、ワンワンと手を振っている。

「うん、ちょうど食事も終わったところ。大丈夫だよ」

「美味に早く伝えたいことがあってね。『ニュージャンル芸術賞』という美術の公募が開設されたらしいよ。新しい分野の美術作品を募集しているって。ライスワークにピッタリじゃないかと思うんだ。出してみなよ!」

マルコンの画面には、菊代が手に持っている「ニュージャンル芸術賞」のチラシがアップで映っている。

「わ、いいね!――でも、これって締め切りが3ヶ月後になってるよ!? やる気があっても、そんな早く作業できないなぁ。今、残業が多くなって、休日しか時間ないし……」

「美味! そんなこと言ってたら、そのまんまの状況でおばあちゃんになっちゃうよ!」

菊代はふわふわのアフロヘアーをイライラしたようにかきむしった。

「うん、私だって出したいよ。でも時間が間に合わないかも……」

それでも、美味は煮え切らない返事だ。菊代の言いたいことも気持ちも十分伝わるのだが、納得する作品を応募するとしたら、会社勤めをしながらだと睡眠なしで3ヶ月間作業をしなくてはならないだろう。二人の会話を横で聞いていたマロンが割って入ってきた。

「菊代ちゃん、美味ちゃんには絶対に応募させるワン!」

「お、マロン頼もしいねぇ」

菊代はニンマリと笑っている。クリームも、「マロンちゃん、さすがだワン!」と喜んでいる。本人以外が皆、応募に積極的なのである。美味が困った顔をして何か言おうとした時、

「オギャギャー、ウギャァァァオァァ!」

と赤ちゃんの力強い泣き声が響いた。

「わ! 我が家の小さな暴れん坊将軍、鯛代《たいよ》が起きた! ごめん、もう切るね」

プツリと通信は切られた。困った美味と対照的に、マロンは尻尾をブンブンと振って笑っている。

「美味ちゃん、チャンスだワン! 絶対に出して欲しいワン」

「でも、本当に制作時間がないよ。間に合わせるように妥協したような作品を作りたくもないし……」

そんな美味の気持ちもマロンは理解しているようだ。

「美味ちゃん、ワンには夢が沢山あるワン。その中のひとつは、美味ちゃんのライスワークが世の中に認められることなんだワン」

「ありがとう。嬉しいよ。でも、本当に今回はちょっと出せそうもないよ」

マロンは即答した。

「出せるワン」

マロンは滅法、勘が鋭い犬だ。おそらく何か予感があるのだろう。

「うーん……」

丸メガネを外して目を瞑ってみる。すると心に沁みたマロンの「出せるワン」という言葉が魔法の言葉に変化していく。徐々に出せるような気になってきた。

「――うん。分かった」

無理だとしても、まずはできるだけ頑張ってみよう、そう美味は思った。美味の返答を聞いたマロンはさも当然といった様子で笑っている。

しかし、マロンの「沢山の夢」というのが気になる。自立万能生物の試験に合格する、志藤課長の新しい会社で活躍する……そのほかの夢はなんだろう。そういえば美味には思い当たることがある。

「マロンの沢山の夢のひとつって、もしかして、クリームのこととか?」

マロンの顔が赤くなったような気がした。全身が栗色の毛で覆われているので、赤くなるはずはないが、照れているのは確かだ。

「それもあるワン。いつかはクリームちゃんと結婚したいワン」

マロンとクリームが恋人同士であることは美味も菊代ももちろん知っていたし、暖かい目で見守っていた。二人は将来的に結婚するのだろうな、とはうっすら思ってはいたが、その話題が出たのは初めてだ。美味の心にチクッと刺さるものがある。

「マロン……もしかして、自立万能生物の試験が合格したら……クリームと結婚して、この家を出るの?」

マロンが選んだ幸せであれば、美味は喜んで送り出さなければならない。しかし、その気持ちと裏腹に自分から離れて欲しくない気持ちの方が強い。

「美味ちゃん、それは未来の話だワン」

話を聞くうちに美味は安堵していった。マロンが言うには、クリームもまだ菊代の家にいたいし、マロンも美味の家にいたい。万能生物は寿命も長いから、二人は焦ってはいないらしい。

「ワンも美味ちゃんも変わらないようでいて、少しずつ変わってくるワン」

「確かに。毎日って似ているけど、気づかないくらいの変化はしているよね」

「そうだワン。だから、時期が来たらその時に考えればいいことだワン」

「そうだね。うん」

そう答えながら美味は、マロンの花嫁姿を思い描いた。きっと泣いてしまうだろう。しかし、その時のその涙は決して悲しみの涙ではないはずだ。

* * *

数週間後のことである。

「天堂くん、このドーナツは新作なんだ。ひとつあげるよ」

いつもドーナツは自分の分しか買ってこない舞田課長が美味のためにドーナツを買ってきてくれていた。珍しい。まさに天変地異の珍事である。

「いいんですか? ありがとうございます」

美味がドーナツを受け取る時、舞田課長は少し笑って少し泣いているような複雑な表情であった。

(なんか……)

いつもと違う態度に嫌な予感がする。その予感はすぐに当たることとなった。

その日のお昼休みは、いつものように米部米課に弁当を食べにいき、少し早めにまいたけ課に戻って来た。誰もいない居室で、美味のプチマルコンが鳴動した。

「あ……へのへのだ……」

表示を見ると一時会社の営業のへのへのだ。プチマルコンに連絡が来たのは初めてである。先ほどの嫌な予感が再び湧き上がる。多分、おそらく、間違いなく、そうであろう。美味は覚悟を決めて応答した。

「はい、天堂です」

「あ、お疲れ様です。一時会社の兵乃《へいの》です。実は……」

美味は、静かにへのへのの話を聞いた。

* * *

晴天のその日は、ちょうど美味が一年前に株式会社ブラックホールに入社した日と同じ日であった。朝、家を出る時に、マロンは美味の顔をひと舐めして、いつもよりも元気な声で

「美味ちゃん、いってらっしゃいワン!」

と言って送り出してくれた。その言葉がまだ美味の耳に残っている。

今日は美味の最終出勤日である。

へのへのから美味の解雇が決定したという連絡があった日から今日までの日々は、あっという間に過ぎて言った。会社内で美味が聞いた噂によると、超立体画像の編集をする丸社員がまいたけ課に配属される予定だという。超立体画像編集のマニュアル作成依頼は、美味の後任のロボットを作るためではなく、新入社員に対するものだったのだ。その丸社員は海老沢部長の親戚らしい。本当は海老課の配属にしたかったらしいが、海老沢部長自身が以前「海老課の人員を増やさない」と宣言してしまっているので、しばらくの間はまいたけ課の所属になるそうだ。それに伴い、まいたけ課の居室も海老課の予算で豪華に改装するという。これは、舞田課長が嬉しそうに話していた。

「今日で最後か……」

美味は、ごく小さな声でつぶいた。

一時社員は一時的に雇われる。いつ解雇になっても文句は言えない立場ではあるが、実際に解雇となると、憤懣と寂寞と焦燥と諦念と……そんな気持ちが複雑に絡みあってもつれて蠢く。いつから世の中はこんなシステムになったのだろうか。人々が目を瞑っている瞬間に誰かが少しずつ構築してしまったものなのだろうか。

このシステムを崩すことは、ブラックホールのこの堅牢なビルを崩すことと同じことだ。どうすればいいのか……美味にはまだ分からない。残念ながら分かっていることは、美味自身のことだけだ。別の自分の世界を築き上げるということ。そう、本来の目的が待つ高みに向かう時が来たのである。この目標が美味の心の拠り所となり、解雇にまつわる鬱々とした負の気持ちが少しずつ蒸発していった。そして、最終日を迎えたのだった。

美味は、終業時間の数時間前、お世話になった会社内の人々に挨拶に回った。合同四課のツレション4の仲良し課長たちは、残念そうにしてくれたし、穴子課の如呂田《にょろだ》課長は大芋との結婚式に招待したいからと連絡先を聞いてくれた。また、美味は海老課にも挨拶に行った。超立体画像の編集のマニュアル化を拒否したので、行きづらかったのだが、意外にも海老沢部長は怒っていない。「お疲れ様でした」と言いながらいつものように1本の薔薇を渡してきたほどだ。

こうして天丼部での挨拶を終え、美味はまいたけ課に戻って来た。残る部署は、米部米課である。

「天堂くん、米部米課に行くなら、これ持って行って」

舞田課長から渡されたのは回覧板である。そういえば、一年前の入社初日にも米部米課に回覧板を持って行った。かなり昔のことに思えてしまう。

「はい、分かりました。持っていきます」

美味は回覧板を抱えて廊下に出た。

天丼ゲートを抜け、地下2階の米部米課へ。もう決して米部の迷路で迷うことはない。すっかり慣れた廊下だ。

「失礼します」

米部米課の特別研究室には、美味を待っていたかのように米田博士と海老郎がいた。

「米田博士、回覧板を持って来ました。あと最後のご挨拶にも」

「とうとう最終日なんだね、美味ちゃん」

マルコンから発する海老郎の合成音声は沈んだトーンだ。

「うん。そうだね、とうとうだよ」

「美味くん、寂しくなるよ……」

米田博士は泣き笑いのような表情である。

「そうだ、美味ちゃん。さっき、米部米課の裏システムネットワークで分かったんだけど、どうやら美味ちゃんが超立体画像の編集のマニュアルを作らないと宣言した後、会社の監視システムで美味ちゃんの仕事の記録を取り始めてたみたい。自動でマニュアル化をしていたらしい形跡があったよ」

「美味くん、そうなんだよ! 会社が無断で美味くんの技術を盗んだことになるぞ。本当に社長は何を考えているのだか!」

初耳の話だが、美味は特に驚かない。海老沢部長のあの余裕のある態度からして、何か裏があることだろうというのは感づいていた。それよりも、美味のために怒りを露わにしてくれる米田博士と海老郎が美味にとっては嬉しく、思わず笑顔になってしまっている。

「ありがとうございます。その件はもういいんです。それよりも、米田博士がこの会社にいてくれて私はラッキーでした。海老郎とも再会できたし。とにかく出会えて良かった」

「僕もだよ! 会社を辞めるのは寂しいけど、いつでも会えるし。美味ちゃんはこの会社にいるよりも、ライスワークをして欲しいと思っているよ」

「私も同感だ」

米田博士が海老郎の言葉にうなずいている。美味は、ササニコシキヒカリのようなライスヘアーを少し触ってから言った。

「はい。しばらくライスワークに専念するつもりなんです。収入面ではマロンが支えてくれそうだから甘えようと思っています。でも、だらだらと甘えてはいけない、とも思っているんです」

「美味くん、楽しみながら頑張りたまえ」

「新しい作品できたら、見せてね、美味ちゃん」

米田博士は手を差し出し、海老郎はハサミを差し出した。それぞれと握手をした美味は、二人に向かい、

「本当にありがとうございました」

と心からの礼を述べた。

まいたけ課に戻った美味が残務処理をしていると、

「シューギョー、シューギョー」

と終業のベルが鳴った。美味は、荷物をまとめて席を立った。

「舞田課長、真音さん、お世話になりました」

舞田課長と真音への最後の挨拶だ。

「明日から寂しくなるよ」

「天堂さん、色々とありがとう。元気でねぇ」

二人とも嘘はついていないのはその顔を見れば分かる。

「はい、お二人もお元気で」

しかし、寂しそうだった真音だが、何かを思い出したようで顔が一気に明るくなった。

「そうそう! 天堂さんの次に入る丸社員ってぇ、海老沢部長に似ているけど、さらにかっこいい若い男の人みたいよぉ」

期待に満ちている真音に美味は相槌を打つように、ふふと軽く笑った。そして、

「では、お先に失礼します。お疲れ様でした」

と舞茸が張り付くドアを開ける。座っていた舞田課長が「ちょっと待って」と急いで駆け寄ってきた。そして、

「元気で」

とドーナツの箱を渡してくる。

「あ、ありがとうございます」

ドアの隙間から見える真音は座ったまま、美味に向かい手を振って「じゃあね~」と笑っている。美味は、閉まっていくドアの隙間に向かって「お世話になりました」と頭を下げた。

美味は天丼ゲートを抜け外に出た。

これからはライスワークに専念する。長くかかるかもしれない、芽が出ないかもしれない、一時社員に戻ることになるかもしれない。でも、やってみなければ分からない。まずは、菊代が教えてくれた「ニュージャンル芸術賞」への応募だ。そう思い耽りながら歩く。

新東京坂《しんとうきょうさか》駅の改札で美味は振り返った。株式会社ブラックホールの巨大ビルが見える。最上階の777階は雲の上だ。あの各階で、美味の周りに起こったことと同じようなそれぞれの人間模様があるのだな、と思うと世の中の大きさを実感する。しかし、早くも、あのビルの地下一階に自分がいたのかと思うと、美味は不思議な気分になっていた。結局、地上階で仕事をすることはなかった。美味のブラックホールの思い出に自然光はない。しかし、あの場所で出会った人々を大きな青空に思い浮かべることができる。美味は丸メガネのテンプルに軽く触れた。

「さてと……」

家に帰ったら、マロンが美味のためにお疲れ様会を開いてくれる。マロンも数週間後に自立万能生物の試験が控えていて大変なのだが、いつも以上に美味しい料理を作ってくれているだろう。

「そうだ、栗ビールとマロンが好きなノンアルコールの本日本酒を買って帰ろう」

美味は、そんなことを思いながら新東京坂駅から浮遊列車に乗った。

(「甘辛天丼まいたけ課」おわり)

(作・浅羽容子)


〜 あ と が き 〜

全10章で各章5話ずつ全50話で、連載期間一年という長丁場となりました「甘辛天丼まいたけ課」を最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

今回は、近未来の会社ファンタジーを書きましたが、タイトル通りに味付けは「甘辛」に仕上げてあります。そう、皆さんが日々体験されているように、人生は甘いだけじゃなく、辛いことも沢山あります。

「辛いこと」というと、他人から受けた言動で不愉快な気分になることがありますよね。しかし、逆に、自分が他人を傷つけるようなことをしてしまったこともあるはずです。私も他人に対して申し訳なく思っていることがあります。傷つけてしまった方々にはもう会うことはありませんが、幸せであることを願い続けています。

「甘いこと」は、辛いことが続いたら、突然、ご褒美のようにやってくることのように思います。それは些細なことかもしれませんし、大歓喜かもしれません。もしかしたら思い切ってしてみた行動が大きな喜びにつながる可能性もあります。何をしたら良いのか……その喜びの種に気づけるかどうかは本人次第。ラッキーを感知するアンテナを常に敏感にしていたいものです。

そんな「甘辛」な人生ではありますが、「辛いことばかりだなぁ……」と感じていて、一向に「甘いこと」が到来する気配がないことも多々あります。そんな時は、とりあえず、栗ビール(飲めない方はマロンの好物のノンアルコールの本日本酒で)でも飲んで青空を見上げてください。甘くもなく辛くもない青空が全てをリセットしてくれるでしょう。

美味もマロンも私も、空を見上げる貴方を陰ながら応援しています。

貴方に極上に甘いラッキーがやってきますように。

そして、戦争も差別も環境汚染もない自然豊かで平和な未来となりますように。

2022年11月6日(日)

浅羽容子・天堂美味・天堂マロン


<編集後記> by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟

浅羽容子作「甘辛天丼まいたけ課 最終章 さようなら、まいたけ課(5)」、いかがでしたでしょうか?

えっ、マロンちゃんとクリームちゃんって、そうだったの? 気づいてなかったの私だけ?

というのはさておき、最終回です。「甘くも辛くもない青空」という言葉に、甘辛近未来のいろいろが一気に目にしみます。青空、見てますか。秋の空は美しいですよね。高く澄んだ青空の下、新しい道を歩き出した美味、マロン、おめでとう! 辞職したロボたちも、よくわからないけどおめでとう、幸せなロボ生を!

甘くはない現実を生きながら世にも美しいものを生み出す芸術家こそ私が最も尊敬するものです。作家の人生という背景込みで作品を鑑賞しているのでしょうか? どうもそうではなく、思うにむしろ逆なのです。アートの本質とはきっと、泥の中から咲く花です。醜いものの中から美しいものを、美しいものの中からならばもっと美しいものを、生み出せてこそ母胎となった現実さえも輝くのだと思います。こんなに楽しく希望のある物語を生み出す土壌となっただけで、作者のこれまでの日々に大きな価値があったと感じます。美味の甘辛会社生活が素晴らしいライスワークの糧となったことと、まるで円環するように。それだけでなく、これは読んだあなたの日々にも輝きを与える物語だと、私は信じてやみません。一年間のご愛読、改めて本当にありがとうございました。

この作品へのご感想・長い連載を終えた作者へのメッセージをこちらからお待ちしております。

ホテル暴風雨にはたくさんの連載があります。小説・エッセイ・詩・映画評など。ぜひ一度ご覧ください。<連載のご案内>

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