雨だれの音 2/3話(出典:碧巌録第四六則「鏡清雨滴声」)

鏡清和尚は「外から物音がするが、ありゃいったい何の音だろうね?」と問いかけた上で、相手の反応を見てさらに色々なことを言っていますが、これらは全て同じ趣旨のことを言っているのです。

もしも貴方がそれに気づくことができたなら、今後どれほどたくさんのものごとを見聞きしたとしても、それらに左右されることなく自由に振る舞うことができるでしょう。

逆に気づけないというのであれば、今後も引き続き見聞きするもの全てに引きずり回されることは確実です。

禅の世界では修行者を鍛えるために、わざと今回の鏡清和尚のような物言いをすることがあります。

見聞きするものすべてに左右されないだけでなく、それらを知り尽くした上で突き抜けてゆく。

「まず真実を見抜く眼を開き、見聞きするもの全てを知り尽くし、禅の根幹をマスターした上で全て忘れることで、ようやく他人に説明できるようになる」というのが修行のステップなのですが、こうやって言葉にしてしまうとなんだか陳腐になってしまうのが残念なところです・・・

さて、冒頭の鏡清和尚の問答に戻りましょう。

鏡清和尚は「外から物音がするが、いったい何の音か?」と質問し、「雨だれの音」との回答を受けて「人はみな、自分の外側のことばかりを追いかけて、遂には自分を見失ってしまう」と言いました。

世間の人はこの話を聞くとすぐに「ああ、鏡清和尚は話を逸らしたんだね。」などと誤解してしまいますが、鏡清和尚はそんな人ではありません。
徹頭徹尾、相手のために懇切丁寧に指導してくださるお方なのです。

鏡清和尚は「雨の音」がしていることなど当然理解した上で、相手の理解度を試すつもりで「何の音か?」などと尋ねているのです。

さらに、「和尚はどうなのか?」などと言われて「ワシも危ないところだったが、辛うじて自分を見失わずに済んでいる」と答えました。

この僧が「自分を見失」って和尚の言葉を追いかけているのはわかるとして、何故また和尚まで「自分を見失」いそうだなどと言ったのでしょうか?

心ある修行者であれば、ここに鏡清和尚の優しさと凄さを見なければなりません。

なのにこの僧は鈍感にも程があり、「それはいったい何の話か?」などと聞いてしまいました。

徳山和尚や臨済和尚の門下であれば、とっくに棒で叩かれたり一喝されたりしているところです。

―――――つづく

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