冒頭で僧が発した「万法が一に帰るなら、一はどこに帰るのか?」という質問は、悟りの境地がはるかに上の師匠に対して学生が直球勝負でツッコんでいく質問に分類されます。
今回のエピソードに登場する質問者としての僧は、「万法」を力づくでひとつに丸めて、まさしく一直線に趙州和尚にツッコんでいったわけです。
でもそこは流石の趙州和尚、追い詰められるかと見せかけておいて、土壇場で「一着の重さは七斤」と答えることで身をかわしました。
雪竇和尚は「どれほどの人が七斤の麻ジャケットの重さを知っているのか? ジャケットが西湖に放り込まれたぞ!」と言いました。
湖に捨ててどうするんだ!? とツッコミたいところですが、「万法は一に帰る」といっても、実は「一」なんて不要ですし、七斤の麻ジャケットもまた不要なのです。
で、雪竇和尚は西湖に投げ捨ててしまったと。
(そういえば雪竇和尚は西湖のほとりに住んでおられましたっけ)
雪竇和尚はさらに「重荷を吹き飛ばしてくれる風を吹かせる役を誰に譲ろうか?」と言いました。
これはかつて趙州和尚が「オマエがもし北から来たのであれば、オマエに荷物を積んでやろう。逆にもし南から来たのであれば、オマエが背負っている荷物をおろしてやる。」と言ったことをふまえたものです。
皆さま既におわかりかと思いますが、ここで「荷物を積む」というのは真理について敢えて色々と説明してやることであり、「荷物を下ろす」とは、詰め込みすぎてかえって悟りの邪魔になっている知識をバッサリと切って捨ててやることの喩えです。
かつてたくさんの知識を詰め込んで趙州和尚に挑んだ僧が、その知識をひとつも使うことができずにコテンパンにやられたといいます。
「悟りを得たら、悟る前と同じになった」と言いますが、まさしくこれがいい例ですね。
このような言い方をすると、しばしば「そうだとも! 本来「迷い」も「悟り」も単なる気のせいであって実在しないのだ! だからこれ以上何かを求めることなどないのだ! 達磨大師が中国に来る前から、もっといえばブッダが生まれる前から世界は無事に存在していたのだ!」などカンチガイされてしまうことがあるのですが、それでは仏教の出番はなくなってしまいます・・・
徹底的に考えて考えて考え抜いた上で到達できる境地こそが、真の「無事」の境地なのです。
龍牙和尚は言いました。
「少なくとも一度は、徹底的にベストを尽くして勝利する経験を持つことだ。博物館に飾られたレーシングカーを見てみろ! あれは元々田舎の工場から出荷されたものだが、過酷なレースに勝ち抜くことで都会の立派な館の中でくつろげる身分をゲットしたのだ。」
おわかりでしょうか? 趙州和尚の「七斤の麻ジャケット」の話もまた、これと同じことなのです。
・・・などと私が解説し、それを貴方がこうやって読む。
これらは全て「荷物を積む」行為です。
それではどうやって「荷物をおろし」たらよいのでしょうか?
皆さま、それぞれじっくりと考えてみてくださいませ。
<「一」の帰る場所 完>
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