法身のかたち 2/3話(出典:碧巌録第四七則「雲門六不収」)

金光明経には「仏の真の法身は虚空のようなものだ。そしてそれは水に映る月のように、海から小さな器に至るまで、ものそれぞれに応じて姿を表す」と書かれています。

これに関する、夾山(かっさん)和尚ととある僧の会話は次の通り。

僧:「法身とはいったいどのようなものなのでしょうか?」
夾:「法身に決まった姿はないよ。」

僧:「それではそれを見ることができる眼とは、いったいどのようなものなのでしょうか?」
夾:「法をみることができる眼にキズはないよ。」

雲門和尚の「六には収まらない」について、「ああ、「六」ね。六根とか六塵とか六識とかのことでしょ? そういったものは全て法身から発生したものだから、そこに法身が収まらないのは当たり前だよ。」などと言う人がいますが、これはまるっきり見当外れであって雲門和尚が彼岸から助走をつけて殴りに来るレベルです。

理解したいというのであれば、もう少しマジメに考えないと・・・

雲門和尚の発言は一瞬なんとなくわかったような気になるものが多いのですが、このレベルの人が何かを言うときは少なくともそこから三段ぐらい深いことを伝えようとされているものです。

表面的には素っ頓狂な言葉が返ってきたとしても、よくよく考えてみればこれ以上ないほど真摯な回答であったことがわかるハズ。

よく言うではありませんか。「もし謎がひとつでも解けたなら、残りの千万の謎も一気に解ける」、と。

さて、私は今、法身の話をしているのでしょうか? それとも大師匠の話をしているのでしょうか?

雪竇和尚はこのエピソードに対して、次のようにコメントました。

一、二、三、四、五、六・・・ それは達磨大師でも数え切れない。

達磨大師が少林寺で慧可に仏法を伝えただって?

そんなもの、「実は達磨大師は中国で死んだのではなく、天竺に帰ってまだ生きている」というのと同じほどヒドイ都市伝説じゃ。

天竺が遠くて事実確認ができないのをよいことに、なんともデタラメなことを言うヤツもいたもんじゃ!

・・・そういえば、夕べ、ウチにそれらしいお方が止まっておられたのう。

―――――つづく

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