どちらかがボケてみせれば、もう片方がすかさずツッコむ。
これが「歴代の師匠たちの芸風」なのですが、改めて考えてみれば、これこそがいわゆる「啐啄同時」なのではないでしょうか?
ボケとツッコミの奥義を極めたとき、ワンパンチでチョモランマ山を粉砕し、ワンキックで全ての海水を宙に舞わすことが可能となります。
それは燃え盛る火の玉のようなものであって、うかつに近づけば一瞬で焼き尽くされてしまいますし、伝説の太阿の剣の如く、振りかざしただけで風下にいる者は全て即死してしまいます。
雪竇和尚はこういった芸風を「相手を一撃で倒す」と表現したのですが、その後急に「母と子は別の人間なので「啐啄同時」は成立しない」などと言い出しました。
母親が外から一生懸命つっついても子は全く気づきませんし、子が必死に中からつっついても母親は全く気づかない。
親子といっても所詮そんなものであって、タイミングがピタリと合うことなどないという主張です。
香厳和尚は言いました。
「子がつっついたタイミングで母がつっついて子が生まれ出たとしても、その瞬間にもう殻などなくなってしまっているし、母も子もつっつきあいのことなど忘れてしまうのだ。
それぞれ独立した人格であって、互いに尊重し合う。それで充分じゃないか。」
冒頭のエピソードで、鏡清和尚の「生きていけるか?」という問いかけ(=啄)に対し、弟子の僧は「生きられなかったら笑いもの」としっかり答え(=啐)ています。
にもかかわらず雪竇和尚はなぜ、「タマゴの殻をかぶったまま(=ちゃんと生まれ出られていない)」とコメントしたのでしょうか?
この状態を指して、鏡清和尚は「草むらでまごまごしている」と、雪竇和尚は「棒で叩かれる」と表現したわけなのですが、これこそ「タマゴから出られていない」コメントなのではないでしょうか?
・・・などと解説している私も、まだまだ「草むらでまごまごしている」と言われても仕方ないレベルですね。(苦笑)
最後に雪竇和尚は「世間の僧たちはそんなものに名前をつけようとする」と言いましたが、どんなものにどんな名前をつけようとしているのか具体的に言わない方が後世の人たちのためになると考えたのか、あえてハッキリとは示されませんでした。
さて、賢明なる読者の皆さん、果たして人類は、彼のやり方によって草むらから、タマゴから出ることができたのでしょうか?
雪竇和尚のコメントから千年近く経った今、じっくり検証してみたいところです。
<殻を破るとき 完>
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