どこから来たの? 3/3話(出典:碧巌録第十則「睦州問僧甚処」)

「喝」といえば臨済和尚が有名ですが、彼は自ら編み出したこの手法を次のように解説しています。

「ある時の喝は喝のハタラキをせず、またある時の喝は喝のハタラキをする。ある時の喝は獲物を狙うライオンとなり、またある時の喝は伝説の宝剣となるのだ!」

雪竇和尚がポエムの中で「やり手」という言葉を使ったのは、彼独特の優しさゆえです。
そうでなかったらこの僧はただデタラメに喝を繰り返しただけになってしまうのですから。

上記の臨済和尚の言葉が収録されているのは「臨済録」という書物ですが、臨済和尚の弟子であり、臨済録の編集にも携わった興化和尚は「喝」の使い方について次のように語っています。

「師匠の開発した「喝」の技法は確かにカッコよくてマネしやすいものだが、オマエらちょっと使い方が雑すぎやしないか? あちらで喝、こちらでも喝、これじゃまるで喝の大安売りだ。デタラメな喝は、ワシは認めんぞ! 仮にオマエがその喝でワシを有頂天に登らせ、さらにそこから叩き落としてワシの息の根を止めたとしても、すぐに生き返って「全然ダメ!」と言ってやる!」

さらには当の臨済和尚本人も次のように語っています。

「東からやってきた僧と西からやってきた僧が出会うなり二人同時に喝を発したとしたら、果たしてどちらが客でどちらが主人だ? この答えがわかるまで、オマエら全員ワシのマネをして喝するのを禁止する!!」

先に私は「本当に地に足のついた人物であれば「三回、四回喝した後はどうする?」などという言葉には取り合わずに行動するのではないか」と言いましたが、これを聞いた連中が「そうだとも! 二十回でも三十回でも喝するのだ! で、五十六億七千万年後に弥勒菩薩が降臨する時まで喝し続けることを「トラの頭にまたがる」と呼ぶのだ!!」などと言っているようですが大間違いです。

こういう連中は睦州和尚の考えも、相手をした僧の考えも、雪竇和尚の考えも、そして私の考えもまるでわかっちゃいません。

「借り物ではない、しっかり自分のものとした武器を持ち、めまぐるしく変化する状況にピタリと対応し続ける」ことができなければ、トラの頭になどまたがれるわけがないのです。

雪竇和尚はポエムの中で「真っ暗なのはどこのどいつ?」と言いましたが、主人がそうなのか、客がそうなのか、ひょっとしたらそのどちらも「真っ暗」なのでしょうか?

雪竇和尚はポエムの最後で「天下にひきだして皆に見せてくれよう」とも言っています。

さてこれは目を開けて見るのがよいか、目を閉じてみるのがよいか、果たしてどちらでしょうか?

答えのわかった人、手をあげてください。

<どこから来たの? 完>

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