蓮の花と葉 1/2話(出典:碧巌録第二十一則「智門蓮華荷葉」)

とある僧が智門和尚に尋ねました。

僧:「蓮の花がまだ泥の中にある時はどうでしょうか?」
智:「蓮の花だな。」

僧:「それでは泥から出た後はどうでしょうか?」
智:「蓮の葉だね。」

例によってなんともトボケた感じのやりとりですが、智門和尚が相手のレベルに合わせて対応したというのであれば、まぁこんな感じでしょう。

ただ、智門和尚が相手を本気でバッサリやろうとしたというのであれば、大失敗です。

さて皆さん、蓮の花は泥から出た後に咲くものですが、泥から出ていない時点では花と呼べないでしょうか? それとも花と呼べるでしょうか?

この辺りの区別がついているのであれば、まぁ、少しは見込みがあると言えるでしょう。

とはいえ、どちらも同じということにしてしまうと真理や仏性が曖昧なものになってしまいますし、違うというのであれば余計な分別心がまだ残っていることになり、いずれにしても心の平穏はいつまで経っても訪れません。

以前も申し上げましたが、昔の師匠たちは余計なことは一切言わず、また、やりもしませんでした。

例えば投子和尚は弟子たちにこう言っています。

「いいかオマエたち、絶対に言葉ヅラにはとらわれるなよ!
余計な分別心さえ持たなければ、自然と字句の善し悪しなど気にもしなくなるものだ。
いいか? オマエたちこそが一切の存在の主なのだ。
そこを逆に考えてしまうからおかしくなる。
世間における地位や名誉、金銭的損得などは全て幻のようなものだ。
「〇〇はどうか?」という質問に対する我々の回答もまた同じ。
オマエたちが質問するから答えたまでのことであって、ここでワシが何と言おうと真実の姿は不変なのだ。」

また百丈和尚は「仏性の意味が知りたければ原因・結果の関係性をよく見極めた上で、タイミングに注意しろ!」と言いましたが、雲門和尚はこれに関連して次のように言いました。

「とある僧が霊雲和尚に「仏が出現する前はどうでしょうか?」と尋ねたら霊雲和尚は手にしていた払子を立てて見せた。その僧がさらに「それでは出現した後はどうでしょうか?」と尋ねたら霊雲和尚はまた払子を立てて見せたのだが、ワシに言わせれば前のヤツはOKだが後のヤツは全然ダメだ!
「出る前」と「出た後」の区別がないのであれば、百丈和尚の言う「タイミング」になど注意のしようがなくなってしまうからだ!」

―――――つづく

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