保福和尚の「シュメール山頂」 2/2話(出典:碧巌録第二十三則「保福妙峰頂」)

ちなみに「シュメール山頂」については以下のような趙州和尚の問答があります。

僧:「シュメール山の頂上というのは、いったいどのようなものなのでしょうか?」
趙:「本件に関してはノーコメントとさせていただく!」

僧:「・・・いや、なんで答えてくれないのですか?」
趙:「もしも答えてしまったら、オマエは登るのをやめて平地にとどまってしまうからだ!」

華厳経におけるシュメール山のエピソードは以下のようなものです。

シュメール山の頂上には徳雲という名の善知識が住んでいましたが、彼は一生の間に一度も山をおりることはありませんでした。
善財少年は究極の悟りを求めて頂上まで登ってみましたが、それから七日間探し回っても徳雲さんを見つけることができません。
ところがある日、全く違う山の上で徳雲さんと遭遇し、「現在・過去・未来に共通した究極の観察方法と究極の考え方」を学ぶことができました。

・・・恐らく読者の皆さんは、いきなりシュールなナゾナゾを出されて困惑されていることでしょう。

「徳雲さんはシュメール山からおりたことがない」と言っているのに、なんで他の山の上で出会うことができるのでしょうか?

そもそも徳雲さんと善財少年はどこにいるのでしょうか?

この件に関しては、保福和尚よりも二百年ぐらい前の時代の華厳経の研究者が次のように解説しています。

「シュメール山頂とは、つまり「すべてのモノゴトは平等である」という真理の比喩なのだ。そしてそれは、無数の事象のひとつひとつが「全て真実である」という点において平等であるため、何かを得たいとか是非の区別とかの雑念があると見ることができない。だからその場所では善財少年には徳雲さんを見つけることができなかったのだ。」

究極の境地に立った時、眼は自らを見ず、耳は自らを聞かず、指は自らに触れることができないと言います。(刀は自らを切らず、火は自らを焼かず、水は自らを洗わない、というのと同じですね)

華厳経にはさらに次のように書かれています。

本当のことを言えば、仏はこの世に現れなかったし、涅槃などというものも存在しない。全ては人々を救うための方便に過ぎないのだ。

・・・なかなかの衝撃発言ですが、これの直撃を受けてしまうと地球上は死体で溢れかえってしまいますので、無理矢理にでもかわしていきたいところです。

本件に関し、雪竇和尚は次のようなポエムを詠みました。

シュメール山頂の草はツヤツヤ
摘んで誰にあげようか
果たして何人知っていただろう
人類滅亡を防いだのが長慶兄さんだということを

山頂に草がツヤツヤ生えていたならば、そこに住んでいる人はそこにゴロリと寝転がり、もうそれ以上何も起こらないように思えます。(そもそも高山の上には草など生えないような・・・)

長慶和尚は「ここがシュメール山頂だ」と言われて「そりゃそうだけど、もったいない」と言いましたが、なぜこれが人類滅亡を防ぐことになるのでしょうか?

またそれを「知っていたのが何人か」ともありますが、賢明なる読者の皆さんのことですので、きっとどちらもツヤツヤとご存知のことでしょう。

おっと、お後がよろしいようで。(苦笑)

<保福和尚の「シュメール山頂」 完>

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