詩人・編集者の周馳による前書き(1305年)(出典:碧巌録「周馳序」)

「碧巌録」は圜悟和尚の講義を書籍化したものだが、その一番弟子であった跡継の大慧和尚はなんとこれを焼き捨ててしまった。

およそ何ごとであっても、執着するということは仏教における悟りの敵である。
だからこそ、仏教を固く信奉する和尚たちがブッダの言説をこき下ろすようなことが起こるのだ。

「天上天下唯我独尊」という言葉があるが、まさしく人々は皆それぞれが自分の人生の主人公なのであって、世界が存在するから自分があるのではなく、自分が存在するから世界が存在するぐらいのつもりで行動すべきなのだ。

事物の顛末は、全て自らに起因するものと心得なければならない。
環境や他人に振り回されてばかりいるようでは、そのうち必ず自分というものを失ってしまうだろう。

「心」も「道」も「万物」も実はひとつのものであって、それが宇宙に充満しているのであるから、どこをどのように進もうが必ず道は通じるのである。

ただ、誰もがそれを理解しているかと言えばそうではない。

誰か悟った人に話を聞けばよいと思うかも知れないが、蘇東坡の日喩*の話のように聞けば聞くほど真実からは遠ざかるのが常なのではないか。

*日喩(にちゆ):生まれつき目の見えない人が目の見える人に「太陽とはどういうものか?」と尋ねた場合、「ドラのような円形のものだ」と答えれば「ドラのような音がするもの」かと思い、「ロウソクのようなものだ」と答えれば「細い笛に似たもの」かと思ってしまって、言葉だけで本質を伝えることの難しさを言う。

孔子は「道」というものについて直接語ることを避けようとした。

ましてや世間を超越することを目指す仏教が、文字言語に頼っていてよいハズがない。

とはいえ、人々の理解レベルには実際問題として相当の差があるので、言葉を全く使わないというのはかなりキビシイ。

大蔵経は実に五千巻を超えるが、これらは皆、将来これを学ぶ者たちのために残されたものである。

もしも本当に言葉が不要なのであれば、ブッダは悟りを得た時点で口を閉ざしたに違いない。

天下の道理は日常を離れないとは言っても、それはわかりやすいようでいて、決してわかりやすいものではない。

誰かに手ほどきしてもらわない限り、普通は一生かかっても理解できないだろう。

伝説の名剣「太阿の剣」に関する一般人の認識は、「切れ味抜群で、猛獣も倒せる剣」ぐらいのものであるが、これを達人に使わせると「城壁で振りかざしただけで風下の大軍は全滅して千里を赤く染める」ということになるのだ。

「自分の理解を超えるものについては思考を停止する」というのでは、いつまでたってもラチのあく日はこない。

私はこの書「碧巌録」の存在を知ってから八方手を尽くして探し回り、ようやく全文に相当するテキストを入手した。

すると、その話を聞きつけた編集者仲間の張さんが私のところに復刻版出版の相談にやってきたので一も二もなく賛成し、今般めでたく復刊あいなったということから、巻頭に一筆寄せさせていただく次第である。

大徳九年乙巳(1305年)三月吉日
聊城県の休休居士こと 編集者 周馳 杭州の宿舎にてこれを記す。

<詩人・編集者の周馳による前書き(1305年) 完>


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