居士の三教老人による前書き(1304年)1/2(出典:碧巌録「三教老人序」)

とある人がワシに向かって「圜悟和尚が碧巌録を編成したのと、大慧和尚がそれを焼き捨てたのと、いったいどちらが正しいのでしょうかね?」などと尋ねてきおったので、「そんなもん、どちらも正しいに決まっておろうが!」と答えてやった。

達磨大師は文字を使わずに心で仏教の真髄を伝えたと言われておるが、彼は文字を使いまくって「血脈論」と「帰空論」を書いたりもしておる。

「究極の真実は文字で説明できるようなものではないが、文字を全く使わずに説明することもできない」と昔の人は言ったそうじゃが、実によく言ったものじゃ。

昔の師匠たちは、簾を巻き上げたり版木を鳴らす音を聞いたり、指を一本立てて見せられたり坂道で岩に足の指をぶつけて流血したりした瞬間に究極の真実を悟ったというが、誰もが皆、そんな感じで悟りを得られるのであれば確かに文字など必要ないじゃろう。

お釈迦様が大勢の弟子たちの前でハスの花をつまんで見せ、マハーカッサパ(摩訶迦葉)ひとりだけが微笑むことで「不立文字」の芸風を受け継いだまではよかったが、その後、彼は自分が開いた仏教道場の門前から「仏教を教えます!」と書かれたのぼり旗を撤去してしまった。

その時からじゃ。文字を使わなければ伝えようがなくなってしまったのは。

碧巌録は歴代の師匠たちの公案を集めた書籍じゃが、「公案」とはもともと役所の用語であって、「裁判の調書」のことなのじゃ。

禅宗における公案の使い方は三つある。

修行者の悟りのレベルを確認するのに使う。これが一つ目。
公案に対する見解をただすことで修行者の悟りの深浅を見抜くのは、ベテラン裁判官が徹底的に事実を見極めて判決を下すことと同じじゃ。

また、道を見失って混乱している修行者に正しい道を示すのに使う。これが二つ目。
修行者の陥った状況に応じた公案を与えることで悟らせるのは、スゴ腕の弁護士が既に下った有罪判決を覆すことと同じじゃ。

そして、集中できずに悩んでいる修行者を指導するのに使う。これが三つ目。
ひとつの公案を徹底的に考え抜かせることで修行者の迷いを晴らすのは、役所が法令を頒布することで民衆を導くことと同じじゃ。

歴代の師匠たちの言行録を集めて事案集とし、悟りのきっかけやタイミングなどを記すことで一種のルールブックとしての役割を持たせることは、俗世間における法令集の使われ方とかわるところがない。

公案とは、使いようによってはこのように素晴らしいものじゃというのに、近頃では単なるカンニングペーパーとして扱われておる。なんとも嘆かわしい限りじゃ!

―――――つづく


☆     ☆     ☆     ☆

電子書籍化 第2弾!『超訳文庫 無門関 Kindle版』(定価280円)が発売されました。公案集の代名詞ともいうべき名作を超読みやすい現代語訳で。専用端末の他、スマホやパソコンでもお読みいただけます。

超訳文庫 無門関 ぶんのすけ

【amazonで見る】

第1弾の『超訳文庫アングリマーラ Kindle版』(定価250円)も好評発売中です。<アングリマーラ第1話へ>

「超訳文庫アングリマーラ」ぶんのすけ

【amazonで見る】

スポンサーリンク

フォローする