雲門和尚の秋風 1/2話(出典:碧巌録第二七則「雲門体露金風」)

とある僧が雲門和尚に尋ねました。

僧:「木が枯れて枝も葉も幹も落ちてしまった後はどうでしょう?」
雲:「まるごと秋風に吹かれるばかりだな。」

貴方がもののわかる人物であれば、たったこれだけの問答に雲門和尚の底知れない親切心を感じ取ることができるハズです。

わからないというのであれば、まだまだ鹿を馬と言い張るレベル。目が見えるのに見ておらず、耳が聞こえるのに聞いていないというのでは先が思いやられます・・・

果たして雲門和尚はここで僧の質問に答えたのでしょうか?
それとも単に話を合わせただけなのでしょうか?

「質問に答えた」というのであれば見当違い。
「話を合わせた」というのであれば大間違い。

それでは結局なんなのでしょうか?

ものごとの真実をしっかりと見極めておればこんなものはナゾでもなんでもありませんが、そうでなければ一人でお化け屋敷に閉じ込められたようなものです。

もしも貴方が禅を極めようというのであれば全身でそれを受け止めて、世間の毀誉褒貶など一切気にかけず、飢えたトラに自分の身体をくわえさせ、トラが噛み付こうが振り回そうがひたすらなすがままにさせなければいけません。

「人のために何かをする」というのは、本来そのぐらいの覚悟が必要なものなのです。

冒頭の僧の質問は世間的に見れば「何をつまらぬことを言っているのだ」という感じですが、禅的に見るならば、これはなかなかに大した質問で、修行で腕を磨いてきたことを感じさせるものです。

彼が言うところの「木が枯れて枝も葉も幹も落ちてしまった」というのは、いったいどのような状況のことでしょうか?

汾陽禅師は禅問答の形式を十八種に分類しましたが、今回のものは辯主問(主人の力量を見抜く)、また借事問(別の事柄に仮託する)に分類されます。

雲門和尚はわずかなりとも誤魔化すことなく、質問者に向かって真っ直ぐに「秋風に吹かれるばかり」と言いました。
実に見事な答えっぷりという他はありません。

これはつまり、問が研ぎ澄まされたものだっただけに、答えもシャープなものとなったと言えましょう。

これまでにも何度か申し上げたような気もしますが、そのものズバリの回答を得ようとするのであれば、決して問いのかたちで質問してはいけません。わかった者同士であれば、問いを発しようとした時点で既にお互いに着地点が見えるものです。

雲門和尚は相手の乗ってきた車に乗って相手を追うようなやり口を得意としていました。

例えば「思考の及ばないところはどんなところでしょうか?」という問いに対しては、「考えてわかるものではないよ。」と答えますし、「木が全て枯れ落ちた後は?」という問いに対しては、「秋風に吹かれるばかり」と答えます。

ひとつ質問すれば三つ返し、三つ質問すればひとつ返す雲門和尚の芸風をよく理解しなければなりません。

そう、雲門和尚の一句には、「天地を覆い尽くす句」、「波に身を任せる句」、「全ての流れを断ち切る句」の三句が宿っているのです。

―――――つづく


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