雪竇和尚は今回のエピソードについて次のようなポエムを詠みました。
問いが冴えれば答えも冴える。
三句を見抜けば弓矢は彼方へ。
地には涼風、天には霧雨。
少林寺にきたインド人、今は静かに草の陰。
石頭和尚は言いました。
「人に何か言われたら、その人が自分に何を伝えようとしているのかを考えろ。自分が何を言われたのかを考えているようではダメだ!」
「逆に何か言う時は、言葉を慎重に選んだ上でタイミングよく言わねばならない。よく考えずにでまかせにしゃべっても何にもならないからだ。言葉の意味や効果をよく知った上で、前後の脈絡が連続していなければいかん!!」
今回のエピソードにおける僧の問いはなかなか鋭いものでした。
だから雲門和尚の答えも鋭いものになったのです。
一句の中に秘められた三句を見抜くことができたなら、一本の矢が空の彼方へ放たれます。
もしもその矢をハッキリと見ることが出来たなら、一句の中に宇宙を見ることができるでしょう。
雪竇和尚のポエムはここまででもう充分オチがついていると思うのですが、まだ言い足りないと思われたのでしょうか、さらに続けて詠んでいます。
「地に涼風、天に霧雨」とのことなのですが、果たしてこれは自然現象の話なのでしょうか? それとも心理現象の話をしているのでしょうか?
「宇宙の法則は、いつだって目の前に歴然と存在する」といいます。
冒頭の問答を要約すると、「枯れて枝も葉も幹も落ちてしまった後の木は、まるごと秋風に吹かれるばかり」ということになりますが、私はこれはそのまま自然現象として受け取るべきだと考えています。
まさしく秋風が吹いているのです。東南の風でなければ、西北の風が。
無理に禅っぽく考える必要などありません。
さて、達磨大師は少林寺で九年間壁に向かって座り続けていたといいますが、これは「枯れて枝も葉も幹も落ちてしまった」状態でしょうか?
それとも「まるごと秋風に吹かれ」ている状態でしょうか?
ここでアレもコレもひっくるめて裏表なくひとまとめにすることができたなら、貴方は少林寺を覆う草薮を越えて、雲門和尚と雪竇和尚の底しれぬ慈悲深さに触れることができるでしょう。
・・・毎度のことですが今回もちょっとしゃべりすぎたようですので、この辺で終わらせてくださいませ。(苦笑)
<雲門和尚の秋風 完>
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