陳居士、資福和尚に会いにゆく 2/2話(出典:碧巌録第三十三則「陳尚書看資福」)

陳居士は睦州和尚に師事していましたが、この日は仰山和尚一派の長老であった資福和尚のところに胸を借りに行ったのです。

この一派は後進の指導に具体的なジェスチャーを用いることで有名なのですが、果たして陳居士がやってくるのを見た資福和尚は指先で空中に円を描いてみせた次第。

ただ、陳居士はそんじょそこらの坊主よりもよほど修行のできたベテランでしたので、そんなものでは釣られずに「私に来られてしまっただけでも大失敗なのに、いったい何をやっているのか?」と言い、資福和尚は扉を閉めて引っ込んでしまったというわけです。

ひと言でグサリと核心を突く。
まさしく達人の技の冴えです。

しかし雪竇和尚は第三の目が開いているようなお方でしたので、「陳居士は片目しかない」と批判しました。

もし貴方が陳居士なら、いったいどうやって雪竇和尚から片目呼ばわりされないようにしますでしょうか?

このエピソードに関する雪竇和尚のポエムは次の通りです。

まあるい玉は、ぐるぐるコロコロ。
どっさり鉄船に積み込んで、
仙人さまに届けよう。
大ガメ釣るなら丈夫な投網。
禅坊主どももイチコロさ!

最初の一行は資福和尚が空中に描いた円のことだというのはすぐにお気づきのことと思いますが、「どっさり鉄船に積み込む」という部分はいかがでしょうか?

届け先もそんじょそこらの俗物ではダメで、世界と一体化したような超人でなければなりません。

この「玉」は、例えば貴方のように既に別のものが入ってしまっている人物では決して受け取ることができません。

「禅とはこういうものだ」という思い込みや、「物事の善し悪し」に関する思い込みがあってはダメなのです。

え?「私にはそんなものはないので受け取れます!」ですって?

それでは「大ガメ釣るなら丈夫な投網」はどう受け取られますでしょうか?

かつて風穴和尚は言いました。

「海を荒らす大クジラを釣り上げるのは得意だが、カエルが泥の中をはいずり回っているのを見るとタメイキがでちゃうんだよな・・・」

また、こうも言っています。

「巨大な海ガメよ、仙境の山を載せたまま去らないでくれ。私はその山に登りたいのだ!」

さて、雪竇和尚は最後に「禅坊主どももイチコロ」と言っていますが、これは如何なものでしょうか?

巨大海ガメには巨大海ガメなりの、禅坊主には禅坊主なりの考えがあると私は思いますけれどもね。(苦笑)

<陳居士、資福和尚に会いにゆく 完>


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