私の師匠の雪竇和尚の師匠である法演和尚は「そこんとこを通過して初めて自由になる資格がある」と言いましたし、法演師匠のさらに二代前の師匠は「こだわりがあれば必ず間違った道に迷い込んでしまう。それさえなければ天真爛漫、行くも戻るもないのだ。」と言いました。
かといって「仏もなく法もない」というのを真に受けてしまったら、手ぶらでお化け屋敷に乗りこむようなもの。
解脱を求めること自体は決して悪いことではないのですが、それにこだわりすぎると深い穴にすっぽりと落ち込んだように出てくることができなくなります。
それ自体は善いことなのに悪い結果を招いてしまう。
これを我らは「金鎖の難(純金の鎖に縛られる)」と呼びます。
冒頭のエピソードに関する雪竇和尚のポエムは次のようなものです。
三界に法なし。
いくら探したって心など見つかるわけがない。
たなびく雲は我が家の屋根、川辺の水音は妙なる調べを奏でるが、その良さを理解できるヤツは誰もいない。
雨上がりの秋の夜、池は満々と水をたたえている。
「三界に法なく、心を求めても得られない」というのは華厳経の教えです。
「なるほど、雪竇和尚は「無」をテーマにポエムを詠んだんだね!」などという人がいますが、寝言は寝ている時に言うものです。
ちなみに北宋期の詩人の頂点とされる蘇東坡こと蘇軾さんは、次のようなポエムを詠んでいます。
谷川のせせらぎは仏の説法。
そびえたつ山々は仏の身体。
一晩中かけて八万四千もの話を聞かせてもらったが、
さて、これをどうやって人に話したものか・・・
―――――つづく
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