三界に法なし 3/3話(出典:碧巌録第三十七則「盤山三界無法」)

「川辺の水音は妙なる調べを奏でる」つまり雪竇和尚は、蘇軾さんと同じように川のせせらぎをブッダの説法になぞらえているのです。

そして「その良さを理解できるヤツは誰もいない」と続けました。

九峰和尚は言いました。

「オマエらはいったい「命」をどのようなものだと考えておるのだ? ワシに言わせれば命とは川の流れのようなもので、それがよどんでいる状態が身体だ。波が次々とおこる様は文殊菩薩のあり方、からりと晴れ渡った青空は普賢菩薩のあり方を示しておる。」

雪竇和尚は「川のせせらぎが絶え間なく究極の真実を説いてくれているというのに、なんとわかるヤツが誰もいないときたもんだ!」と嘆いてみせたわけですが、確かにそれができる人はなかなか得難いものです。誰でも耳があれば聞こえてはいるハズなのですが・・・

道場和尚は言いました。

「生まれつき耳が聞こえない人であっても歌を歌うことはできるが、その歌がどんな風に響いているか、またそれが上手いか下手か、本人には全くわからないというわけだ。」

雲門和尚は言いました。

「こちらがズバリと指摘してもスルーしてしまうというのでは、まるで話にならない。かといってそこで考え込まれても話が一向に進まない・・・」

道場和尚の言葉はつまり「オマエ、自分で言っていることの意味がわかっているのか?」という厳しいご指摘なのですが、鈍い人には伝わりません。

雲門和尚が言うように、指摘をスルーしてしまっては話にならないのですが、本当は指摘されて気づくのでも遅いのです。

指摘される前、または指摘されそうになる前の段階で気づくことができてこそ、智慧とハタラキを同時に発揮して、最も重要なポイントをおさえることができるのです。

蘇軾さんは雪竇和尚のポエムの「雨上がりの秋の夜、池は満々と水をたたえている」という部分を読んで、「なんという文才だ!」と絶賛したとのこと。

ここで読者の貴方のためにもう一度言いましょう。

「雨上がりの秋の夜、池は満々と水をたたえている!」

・・・やはりおわかりにはならないようですね。

これ以上もたもたしてしまっては、永遠に理解できないままですよ。(苦笑)

<三界に法なし 完>


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