ブッダがこの世に出現したことはないので、法を説けるわけがありません。
達磨大師はインドから中国に来ていないので、心を伝えられるわけがありません。
今でも多くの人々がそういったものを求めてあちこち探し回っていますが、歴代の師匠たちを含めてそれを見つけられた者は誰もいません。(実は各人の足元に答えがあるというのに・・・)
見るとか見ないとか、聞くとか聞かないとか、説くとか説かないとか、知るとか知らないとか、そんなものいったいどこから来るというのでしょうか?
全くわからないというのであれば、まずは言葉を使って考えてみるしかないですね。
まだ二十代の青年修行僧だった良さんが欽山和尚のところにやってきた時のことです。
良:「一本の矢が三つの関所を貫通するとしたなら、どうします?」
欽:「関所の主にはかすりもしないよ。」
良:「・・・すみません。出直して参りますので少々お待ちくださいませ。」
欽:「どのぐらい待てばよいのだ?」
良:「放たれた矢は自由に飛んでいくのです!」
そう言って逃げ出そうとした良さんを欽山和尚が呼び止めました。
欽:「ちょっと待たんかい、オマエ!!」
欽山和尚は振り向いた良さんを押さえつけて言いました。
欽:「一本の矢が三つの関所を貫通すると言ったな!? それはいいから、まずこのワシを射てみよ!!」
良さんが返答に窮しているのを見て、欽山和尚は棒で七回叩いた挙げ句「あと三十年は悩むがいいわ!!」と言ったとか。
この良さんという人は新進気鋭の修行僧であって道場破りで鳴らした若者なのですが、流石に今回は相手が悪く、まぁまぁ善戦しましたが結局欽山和尚の手の内を出ることができなかったというわけです。
まぁ、百発百中で知られた弓使いの猛者である李将軍ほどの実力者でも、結局最後まで役職につけなかったといいますから、これも仕方のないことでしょう。
「一本の矢が三つの関所を貫通する」というのはなかなかハッタリのきいたセリフですが、欽山和尚に付け入る隙はありません。
逃げようとしても捕まって、七回も棒で叩かれてしまいます。
近頃の禅坊主ときたら、この話を聞いて「いや、七回とはまた中途半端だな。なんで八回とか六回じゃないんだい? それに叩くなら「ワシを射てみよ!」というところで叩けばいいのに。」などと言いますが、これでは合格点はつけられません。
上の問答は欽山和尚の一方的勝利のように見えますが、仮に良さんの根性がもっと座っていたとしたならば、違う結果になった可能性が高いのです。
さて、ここで読者の皆さんに質問です。
「関所の主」とは、結局誰のことなのでしょうか?
―――――つづく
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