一本の矢 2/2話(出典:碧巌録第五十六則「欽山一鏃破三関」)

今回のエピソードに対し、雪竇和尚は次のようなポエムを詠みました。

勇者の前に「関所の主」出現!
矢を放つなら当たるように放つべし。
眼で見ようとすれば耳が聞こえなくなり、
聞こえなくてもいいやと思うと眼も見えなくなる。
三つの関所を一本の矢で貫いた!
矢の飛んだ跡がハッキリ見える。
玄沙和尚*のこんな言葉を、キミは知っているかな?
「「関所の主」は宇宙が発生する前から心の主なのだ!」

*帰宗(きす)和尚の間違い。これは帰宗和尚が「帰宗」と呼ばれるようになったポエムの重要な部分だというのに・・・引用元は正確に記して欲しいところですね。

冒頭のエピソードを聞いた同安和尚と僧の会話です。

同:「う~ん、良さんは矢を放つところまでは見事だったんだけど、これじゃあ的には当たらないなぁ。」

僧:「どうやったら当てられるのですか?」
同:「関所の主とはいったい誰のことだ?」

この話を聞いた欽山和尚は言いました。

「なるほど、確かにそう言えたならワシにやり込められることはなかったかもな。・・・しかし同安も人が悪いなぁ。」

雪竇和尚は「関所の主が出現した」と言いました。

これはゲームのラスボスみたいな存在なのですが、目を開いていようが閉じていようが姿を捉えねばならず、形があろうがなかろうが三つに切って捨てなければなりません。

的に当たれば見事に矢を放ったということ。
当たらなければ見事に放つことができなかったということになります。

ところで、眼で見ようとすると耳が聞こえなくなるというのは何故でしょうか?

聴覚を捨てようとすると視覚も失ってしまうというのは何故でしょうか?

これを理解しようと思うのであれば、まずは五感を区別して考えることをやめないといけません。

良さんの「一本の矢が三つの関所を貫通するとしたなら?」から同安和尚の「関所の主とは誰のことだ?」まで、ハッキリと一本の矢が飛んだ跡があるではありませんか。

我々は従来「心こそが主」と教えてきているのですが、ここではなんと宇宙が発生する前からそうなのだと言います。

なぜ、そうなのか?
これがわかった時、貴方は「関所の主」が誰なのかを知ることでしょう。

「心こそが主」というのは決して間違いではないのですが今どきの人はそれを曲解することが多く、そのせいで結局悟れずに終わってしまいます。

さて、今まさにこの時、「宇宙が発生する前」とはいったいどういうことでしょうか?

答えのわかった人、見事に矢を放ってみせてくださいませ。

<一本の矢 完>


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