とある僧が趙州和尚に尋ねました。
僧:「和尚さま、貴方は「究極の真実に至る道を歩くことは全く難しくない。ただ、選り好みさえしなければよいのだ。それを言葉にしてしまったら、それはもう選り好みだ!」と仰いましたが、それでは貴方はいったいどうやってそれを弟子に教えるおつもりなのでしょうか?」
趙:「・・・なぜ最後まで引用しないのだ?」
僧:「ここまでしか覚えていないからですよ!」
趙:「それこそ「究極の真実に至る道を歩くことは全く難しくない。ただ、選り好みさえしなければよい」じゃないか!」
趙州和尚がいつも言っているセリフのフルバージョンは次のとおりです。
「究極の真実に至る道を歩くことは全く難しくない。ただ、選り好みさえしなければよいのだ。わずかでもそれを言葉にしてしまったら選り好みになってしまって、それ以上どうしようもなく明々白々。ワシはそんなものとはまるで無関係だが、オマエたちはそれにしがみつこうというのか?」
ある時、とある僧がツッコミを入れました。
僧:「いや和尚さま、明白でないものにどうやってしがみついたらいいのですか?」
趙:「そんなことワシも知らんよ。」
僧:「知らないのならなぜ、ワシは明白とは関係ないなんて言ったのですか?」
趙:「いい質問だ。お辞儀をしてから帰りなさい。」
この僧もなかなかに腕に覚えがあるとみえ、趙州和尚にスキがあると見てすかさず鋭いツッコミを入れています。
並の和尚ではとても太刀打ちできないところですが、そこはやりての趙州和尚、「なぜ最後まで引用しない?」と返しました。
この僧も負けじと「ここまでしか覚えていない!」と返します。
事前に打ち合わせをしたかの如くの見事な掛け合いではありませんか!
それに対して趙州和尚は「それこそ「究極の真実に至る道(中略)選り好みさえしなければよい」だ!」と返し、それ以上問答を続けさせませんでした。
洞山和尚は「ビシッとハマる一句を言うことは簡単だが、それを定着するまで言い続けることはなかなか難しい。」と言いましたが、趙州和尚は弟子たちから数々のツッコミを受けつつもピタリと決めてみせました。
貴方がもし「この言葉には意味があるのだ」と考えるなら見当違い、「この言葉には意味なんてないのだ」と考えるならそれも見当違い。「意味があることもないこともない」と考えるなら、それもやはり見当違い。
この事柄はあらゆる言語表現を超越しており、キラリと光ったわずかな瞬間に見て取るしかない類のものなのです。
今回のエピソードに関して、雪竇和尚は次のようなポエムを詠みました。
水もかけられず、風も吹き込めない。
トラのように歩き、ドラゴンのように泳ぎ、その前では鬼神さえ泣き叫ぶ。
顔の長さが一メートル近くもあるコイツはいったい何者なのか?
まさに目の前に一本足で立っているコイツは・・・
前半の二行は趙州和尚の力量を讃えたもので、質問者の僧のみならず鬼神さえも泣き叫び、あらゆるものがなぎ倒されるほどのものであることを表現しています。
そして後半の二行ですが、これは洞山和尚がかつて「仏とはどういうものか?」という質問に対して「顔の長さは九十センチ強、首の長さは六センチ」と答えたことを引用したものであって、雪竇和尚ならではの表現です。
さて皆さん、皆さんは「コイツ」がいったい何者なのかご存知でしょうか?
私? そんなもの私にわかるわけがないではありませんか!(笑)
雪竇和尚はまるで目の前にあるかのように趙州和尚を鮮やかに描き出して見せました。
皆さんもよくよく目をつけてご覧あれ。
<選り好みしないということ (3)完>
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