雲門和尚の杖 (1)(出典:碧巌録第六十則「雲門拄杖子」)

仏さまと人間は本来同じものです。
山や川と私たちの間には何の違いもありません。

にも関わらず、それらがまるで違うもののように見なされているのは何故でしょうか?

ある時、雲門和尚は弟子たちに向かって杖を掲げて言いました。

「見ろ! 杖が巨大なドラゴンに変化して、この世の全てを呑み込んでしまったぞ!!
これでもう、山だとか川だとか悩む必要はなくなったな!」

いかにも雲門和尚らしい言い方ですが、山や川とはいったい何のことでしょうか?

「それは有るに決まっている!」というのでは、何も見えていないのと同じ。
「そんなものどこにも無いのさ!」というのでは、死んでいるのと同じです。

今どきの人たちは、雲門和尚がズバリと示してくださったものを全く理解しようとせず、「杖という物理的な存在を使って心理的なハタラキを理解し、山や川といった物理的な現象の中に大宇宙の摂理を見ろ、ということだよね?」などと言う始末・・・

あのお釈迦様が四十九年もかけて説いた教えは、この辺りの勘所をつかんで聴くのでなければ正しく理解できないのです。

お釈迦様は大勢の弟子たちの前で勿体をつけて花をつまみあげて見せ、「言葉にはできない究極の真理の境地をマハーカッサパ(※お釈迦様の最年長の弟子)に伝授しよう。」と言ったということになっていますが、これも何というか「やらずもがな」なことです。

禅僧を名乗る皆さんは、そんなことをされなくても全員この「言葉にはできない究極の真理」なるものを会得しているハズですので。(笑)

たったひとつでも胸の中にわだかまりがあれば、そこから目の前に山やら川やら大地やらがわらわらと出現するでしょう。

逆に胸中が空っぽであれば、外界には山も川も何もないということになりますが、それでも「理と智が合わさって、自然と一体化する」などと言ってはいけません。

一事を理解すれば万事が理解でき、一事を明らかにすれば万事が明らかになる、ということです。

長沙和尚は言いました。

「事物を認識する主体=自我が存在するということを無批判に信じてしまうから、人はなかなか真理にたどり着けないのだ! その自我こそが「本来人」と呼ぶべき根源的な存在だなどとバカなことを言っているから、いつまでたっても生死の輪廻から抜けられないのだ!」

私に言わせれば、そういった妄想を全て打ち払い、心と身体がひとつになって、他に何も余計なものがない、という境地を得たところでせいぜい四十点取れるかどうかです。

楽普和尚は「塵ひとつ定まれば、世界の統率がとれる。」と言いました。

さて、この「塵ひとつ」とはいったい何のことでしょうか?

この「塵」がわかれば、冒頭で雲門和尚が掲げた「杖」が何を意味しているかがわかるハズ。

杖を握りしめただけで世界を自在に操ることができることでしょう。

・・・などと言ってはみましたが、私も雲門和尚も少々言語表現に凝りすぎたかもしれません。(「ドラゴン」なんて言っちゃってますし)

―――――つづく


☆     ☆     ☆     ☆

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