雲門和尚は「至宝は各人の中に宿る」と、究極のところをいきなり宣言しました。
それだけでもう充分なハズなのですが、彼は弟子たちのために良かれと思って「手にした灯りの上に門を乗せ、本殿に乗り込め!」と付け足しました。
なぜ彼はこんな蛇足めいたことをしたのでしょうか?
永嘉和尚はオリジナルポエム「証道歌」の中で「何も知らない、わからないという愚かさがそのまま仏。中身が空っぽの幻のようなこの身体は不滅の真理」と謳いました。
また、澄観和尚は自作の華厳経の解説書の中で「凡人にも仏の心がわかる」と言っています。
我々の肉体は、様々な元素が組み合わさって構成された有機化合物に視聴覚等の感覚が備わった物理的存在です。
その中に「ひとつの宝」が潜んでいるのだと。
だからこそ法照和尚は言ったのです。「仏はそれぞれの心の中にちゃんとおられるのだ。にもかかわらず、アホウどもはそれを外側に求めようとして必死になっておる。値段がつけられないほどの至宝を肌身離さず持っているというのに、それに気づくこともなく一生を過ごしてしまう連中のなんと多いことか!」
長沙和尚は言いました。
「仏性なんてものはハナからむき出しになっているというのに、外見にしか興味のない奴らにはわからない。もし奴らが「「自分」などというものはないのだ」ということに気づきさえすれば、仏の顔と私の顔が同じだということもわかるだろう。」
また、南嶽和尚は言いました。
「顔は生まれつき、心も生まれつき。たとえ巨石を羽衣で全て擦り減らすほどの努力と時間をかけたとしても、これを動かすことはできないのだ。」
ほとんどの人たちは見るからに貴重そうなものを「宝」だと思っていますが、その貴重さの本質が理解できていないので使いこなすことができず、身動きもとれません。
易学の解説書である「周易」の繋辞下伝には、「窮すれば変じ、変ずれば通ず」とあるというのに・・・
「本殿に乗り込む」のはまだわかりますが、「手にした灯りの上に門を乗せる」というのはなかなかのキビシサです。
雪竇和尚は言いました。
「ワシは雲門和尚のバッサリと切れ味の鋭いやり方が大好きじゃ! 演台でふんぞり返るだけの師匠はたくさんおるが、人をぶった斬って救うことができる者はなかなかおらんものでな。「本殿に乗り込む」でもうバッサリやっておるが、そのうえ「手にした灯りの上に門を乗せる」とはまさしく電光石火の技の冴えというほかないのう。」
―――――つづく
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