仰山和尚は三聖和尚に「君の名は?」と尋ねたわけですが、その時点で名前を知らないハズがありません。
敢えて尋ねたのは、トボケたフリをして相手を試そうとしたからです。
そして三聖和尚は「慧然です」と答えるべきところを、わざと「慧寂です」と仰山和尚の名前を言いました。
こんなことを言い出す人は普通は頭がどうかしているのですが、そこはやり手の三聖和尚、仰山和尚から主導権を奪い取るために敢えてそんな答え方をしたのです。
「厳しい修行の上で悟りきった人は、かえって修行する前のアホと同じに見える」と言いますが、これはまさしくそれを地で行ったものと言えましょう。
どのような質問であっても、何も考えずにあたりまえに返答していては人々を苦しみから救済することはできません。
三聖和尚は仰山和尚のやり口を見抜いていたので、仕掛けられたワナには引っかからず、逆に仰山和尚を押さえ込みました。
こう言われてしまうと流石の仰山和尚も「それはワシの名前だ」と言うのが精一杯で、せっかく鋭く切り込んだ追求の手を緩めざるを得ません。
そして、それを見た三聖和尚も「私の名前は慧然です」と言って、逆襲の手を緩めました。
最期に仰山和尚は爆笑しましたが、この笑いは六十六話の巌頭和尚のような毒のある笑いとは違って、からりと晴れ渡った大地に吹き渡るような太古から続く清々しさに満ちています。
このエピソードに関して雪竇和尚が詠んだポエムは、次のようなものでした。
二人で押さえ込もうとしあったり、緩めあったり。
こりゃまたいったい何のつもり?
トラを乗りこなせるのは凄まじい力量を持つ達人だけだ。
笑うだけ笑って、どこへ行こうか?
永遠に吹き続ける風はヒンヤリ冷たい。
「二人で押さえ込もうとしあったり、緩めあったり」、これは互いに主人と客の座を奪い合っているのです。
一方が押さえ込もうとすれば、もう一方も負けじと押さえ込む側に回ろうとしますし、緩めるときもまた同じです。
このハタラキがなければ、「貴方は貴方、ボクはボク」のままで何も起こりません。
昔の師匠は「オマエが立つならワシは座る。オマエが座るならワシは立つ。二人して同時に立ったり座ったりというのはアホウのやることじゃ!」と言いましたが、まさにそんな感じですね。
猛獣のトラにまたがるだけでなく乗りこなそうと思ったら、ちょっとやそっとの腕前では足りません。
半端な力量では乗るには乗ったものの降りられなかったり、降りようとしたら食べられてしまったりします。
その点、仰山和尚と三聖和尚はどちらもトラを乗りこなす力量の持ち主だったというわけですね。
仰山和尚は笑いましたが、いったい何を笑ったのでしょうか?
雪竇和尚は彼の笑いを「永遠に吹き続ける冷風」に喩えましたが、これこそ彼の親切なところです。
つまり彼は「貴方が死んでも弔わない」と言っているのです。
それはいったいどういうつもりか? ですって?
それは私が聞きたいぐらいです。(笑)
もし答えをご存知でしたら、ぜひご教示くださいませ。
<君の名は? 完>
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