雲門和尚はさらに言います。
「真っ昼間は楽チンだ。明るいから特に苦労することなく色々と見分けることができる。
しかし、例えば真夜中、太陽も月も出ておらず灯火のたぐいもない真っ暗闇の中、まだ行ったことのない場所に行き、まだ見たことのないものを取ってこなければならないとしたら、オマエはいったい、どうするつもりだい?」
石頭和尚はその著作「参同契(さんどうかい)」の中でこう言いました。
「明るいところに暗い部分があっても、それを『暗いところがある』と考えてはならない。
暗いところに明るい部分があっても、それを『明るいところがある』と考えてはならない」
暗いとも明るいとも考えてはいけないとなると、いったいどうしたらよいのでしょうか?
円覚経には「心の花が満開になったとき、智慧の光が世界中を照らし出す」、と書かれてはいますが……
盤山和尚は言いました。
「何かを照らし出しているのが光なのではない。そもそも照らし出されるべき『何か』などないのだ。光も照らし出されるべき何かもなくなったとき、そこに残るものはいったい何だ?
また、続けてこうも言いました。
「今オマエは何かを見聞きしているようなつもりになっているのだろうが、そもそも『見聞き』とは何だ?
ワシがオマエに示すことができるのはそれだけなのであって、ワシの姿かたちや声に気を取られてはいかんのだ。
それさえわかれば全くの無事。
本体とハタラキを分けようが分けまいが、もはやどちらでも問題なくなるのだ!」
究極のところが理解できたなら、そこに安住することなく、その境地をもって全ての事柄に立ち向かうべきなのです。
維摩経にも「万物は何ものにも基づかないものに基づいて成立している」と書かれているではありませんか。
ここでわかってもいないのに訳知り顔に振舞ったり、「つまるところこの世は無事が一番! 何ごともスルーして深く考えないのがいいのさ!」などという考えを起こしてはいけません。
ナーガールジュナ(龍樹)は言いました。
「日々の出来事にいちいち心悩まされることがあったとしても、この世や人生に意味がないなんて決して思ってはいけないのだ!」
今回のエピソードに対して、雪竇和尚は次のようなポエムを詠みました。
世界にひとつだけの光がたくさん連なって、皆のための一本の道となった。
枯れて枝も葉も幹も落ちてしまった後の木は、その気になれば誰にだって見える。
キミには見えるかな?
後ろ向きに牛の背にまたがって仏殿に入っていくヤツの姿が。
人は誰でも足もとに「世界にひとつだけの光」を持っているというのに、日ごろ暗くしか使えていません。
雲門和尚はそれを気の毒に思い、皆のために指摘してくださったというわけです。
盤山和尚は言っています。
「心という名の満月が放つ光に、この世の全てが呑み込まれてゆく」
雪竇和尚は人々が「お堂、山門!」という言葉にとらわれてしまうことを恐れて、「皆のための一本の道となった」と詠みました。
お堂や山門はともかく、花が散って木は朽ち果て、日が落ちて月もなく辺り一面真っ暗闇。
さあ、読者の貴方には見えるでしょうか?
明るいところに暗さがあり、暗いところに明るさがある。
つまり右足で歩き出せば自然に左足が出るように、明るさと暗さは別のものではないのです。
雪竇和尚は「『よいこと』など、ない方がよい」に対して「キミには見えるか?」と詠みました。
見えるハズなのに見えなくて、明るいハズなのに明るくない。
「後ろ向きに牛の背にまたがって仏殿に入っていく」とはいったい何のことなのでしょうか?
その答えは是非、皆さん自身が牛に乗って仏殿に確かめに行ってくださいませ。
<誰もが持っている光 完>
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