当時の中国は禅が大ブームで、たくさんの禅寺が建てられてどこも大盛況だったそうです。
冒頭の三病人の話は集まってきた修行僧たちに対して玄沙和尚がいつも話していたものなのですが、この話を単なる身体障害者対応のことだと思っていると、いつまでたっても玄沙和尚が言わんとしていたことは理解できないでしょう。
ある時、長いこと玄沙和尚のもとで修業していた僧が質問しました。
僧:「和尚! 私はもう長いこと和尚のところで和尚のお得意の三病人の話を聞かされてきました。そろそろ独立して方々でこのネタをやろうかと思うのですが、よろしいでしょうか?」
玄沙:「いいとも!」
僧が別れの挨拶をして退出しようとすると、玄沙和尚は言いました。
「ちがうちがう! そうじゃない!!」
それを聞いた僧は、玄沙和尚が本当に伝えたかったことを理解したそうです。
それからしばらくの後、法眼和尚は言いました。
「私はこの話を地蔵和尚から聞かされて、やっと玄沙和尚の三病人の話の意味がわかりました」
上述の会話を聞く限り、玄沙和尚から独立しようとした僧はなんだかわかっていなさそうな感じですが、それならなぜ法眼和尚は「いいとも!」と言ったのでしょうか?
逆にこの僧がちゃんとわかっていたというのなら、なぜ玄沙和尚は「ちがうちがう!」と言ったのでしょうか?
ある時、地蔵和尚は玄沙和尚に尋ねました。
地蔵:「和尚は三病人の話が定番のネタとのことですが、本当ですか?」
玄沙:「本当だよ」
地蔵:「私には目も耳も鼻も口も舌もちゃんとあるのですが、そんな私に和尚はどのように対応されるのでしょうか?」
玄沙:「……(無言)」
玄沙和尚が伝えようとしていることを本当に理解できたなら、それが言葉にできないことぐらいわかるハズ。
雲門和尚に質問した僧は、「お辞儀をしろ」と言われたり杖で突かれそうになったりとやられ放題でしたが、もし彼が物事のわかったベテランであったなら、雲門和尚が「お辞儀をしろ」と言った時点で和尚が座っている椅子をつかんでひっくり返していたことでしょう。
法演和尚は言いました。
「口は達者だが全く理解していないヤツがいる。また、理解していても口下手なヤツがいる。もしこの二人が同時にやってきたとしたなら、オマエはいったいどうするつもりだ?
何もできないということであれば、オマエはまるで人の役に立たないヤツだということになるぞ!
ワシならば、そいつらが門を入ってきた時点でそいつらの腹の中を何往復もしてみせる!
……どうやらピンときていないようだが、オマエはいったいここに何をしにきたというのだ!?」
目が不自由とか耳が不自由とかの話だと思ってはいけません。
維摩経にも「盲のように見て、聾のように聞け!」と書かれているではありませんか。
長沙和尚は言いました。
「眼に色や形があふれていても何も見えず、耳に音があふれていても何も聞こえない。
文殊菩薩が眼前に立ちふさがり、観音菩薩が耳の穴に座り込んでしまっているからだ!」
―――――つづく
☆ ☆ ☆ ☆
電子書籍化 第2弾!『超訳文庫 無門関 Kindle版』(定価280円)が発売されました。公案集の代名詞ともいうべき名作を超読みやすい現代語訳で。専用端末の他、スマホやパソコンでもお読みいただけます。
第1弾の『超訳文庫アングリマーラ Kindle版』(定価250円)も好評発売中です。