今回のエピソードに対して雪竇和尚は次のようなポエムを詠みました。
目が見えない。耳が聞こえない。口がきけない。
三病人の対応は実に難しい。
全くもって笑えるし、実に悲しい。
離婁(りろう)は目がよすぎて正しい色がわからず、
師曠(しこう)は耳がよすぎて本来の音がわからない。
何もない窓辺にひとり座って、
葉が落ちたり花が咲いたりを眺めている方がよっぽどマシだ!
わかるかな?
「柄のないハンマー」だよ!
「目が見えない。耳が聞こえない。口がきけない」
雪竇和尚はこう言うことで一般的な身体障害の概念を撃破しました。
真の盲、真の聾、真の唖ということになれば、もはや相手をするとか対応するとかいうレベルではなくなるのです。
「全くもって笑えるし、実に悲しい」
さて、何が笑えるし、何が悲しいのでしょうか?
私は「一般的な唖が実は唖ではなく、一般的な聾が実は聾ではない」のが笑えるところで、「一般的に唖ではないと思われているものが実は唖で、一般的に聾ではないと思われているものが実は聾だった」というのが悲しいことなのではないかと思っています。
離婁(離朱)は黄帝の時代の人で、百歩離れたところから秋に生え変わったばかりの獣の細い毛先を見ることができる視力の持ち主でした。
かつて黄帝が赤水の畔で遊んだ際、宝玉を沈めて離婁に探させたのですが見つけられず、口達者な者に探させても見つからず、仕方がないのでいつもボーっとしているウスノロに探させたところ、あっという間に見つけてきたのだとか。
「荘子(そうじ)」に書かれているこのエピソードを受けて、風穴和尚は次のようなポエムを詠みました。
「ウスノロが行くと宝玉は燦々と輝き、離婁が行くと波が逆巻く!」
このレベルになると、単に視力が優れているだけでは見ることができないのです。
師曠は周の時代の人で、絶対音感を持っていて、山の向こうでアリが争っている音を聞くことができるほど耳がよかったといいます。
かつて晋が楚と争っている時、師曠は琴の弦を弾いてその響きを聞いただけで楚の敗北を予言しました。
雪竇和尚は、そんな彼でも「本来の音」はわからないのだと言います。
だから雪竇和尚は、「私は離婁にも師曠にもなりたくない。何もない窓辺でひとり、葉が落ちたり花が咲いたりを眺めていたい」と言うのです。
この境地に至ってしまえば、もはや見ても見ないようなものであり、聞いても聞かないようなものであり、説いても説かないようなものではありますが、腹が減ったらメシを食い、疲れたら眠るのです。
雪竇和尚はここまでヒントを出しておいて、「わかるかな?」と尋ねました。
この時点で和尚はもうくたびれてしまっていて「柄のないハンマーだ!」というのが精一杯のように見受けられますが、それでもこの一句はしっかりとつかまえて、見過ごしてしまうことがないようにせねばなりません。
さて、賢明なる読者の皆さん、私に注目してください。
私は今、払子を取り上げましたが、貴方にはちゃんと見えていますか?
そしてそれを振り下ろして演壇を打ち鳴らしましたが、貴方にはちゃんと聞こえていますか?
最後に私は演壇を降ります。
貴方はもちろん、口がきけますよね?
<玄沙和尚の三病人 完>
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