ある僧が智門和尚に尋ねました。
僧:「智慧、つまり般若(はんにゃ)の本体というのはいったいどのようなものなのでしょうか?」
智門:「カラス貝が月の光を呑み込んだようなもんだな」
僧:「それでは般若のハタラキとはどのようなものなのでしょうか?」
智門:「ウサギが身ごもったようなもんだな」
いかにも禅問答らしいシュールな会話ですが、智門和尚はいったい何を言わんとしているのでしょうか?
智門和尚は私の師匠である雪竇和尚の師匠だった方で、雲門和尚のエース級の弟子のひとりでした。
以前、雲門和尚の一句には「天地を覆い尽くす句」「波に身を任せる句」「全ての流れを断ち切る句」の三句が宿っていると申し上げましたが、智門和尚もその芸風をちゃんと受け継いでいるのです。
漢江(かんこう:長江の最大の支流)に生息するカラス貝にはしばしば真珠が入っていることがあり、合浦の真珠として有名なのですが、カラス貝は中秋の名月の頃になると水面に浮かび上がって月光を呑み込み、それが真珠になるのだと言われています。(月がよく出ている時は真珠が多く採れ、月があまり出なかった時は真珠が少ないのだとか)
ウサギもまた中秋の名月が出ると口から月光を呑み込んで、こどもを産むのだとか。
(これも月がよく出ていると多く産み、あまり出ないと少ないのだそうな)
しかし、智門和尚がここでそういう生物学の話をしているのではないことは明らかです。
盤山和尚は言いました。
「ただ心の中の月だけがまん丸で、光が全てを呑み込んでいる。とは言っても、何かを照らし出しているのが光なのではない。そもそも照らし出されるべき『何か』などないのだ。光も照らし出されるべき何かもなくなったとき、そこに残るものはいったい何だ?」
今どきの人たちは、ただ目で見える明かりだけを「光」と呼んで、それを理屈で理解しようとしていますが、私に言わせればそれはあたかも空中にクギを打ち込もうとするようなものです。
福州和尚は言いました。
「そらオマエたち! 六種の器官が二十四時間ぶっ通しで、朝だろうが夜だろうがもの凄い光を放射してこの世の全てを照らし出している。眼だけじゃない、鼻も舌も身体も、心も光を放っているのだ!」
……そういうことであれば、いっそのこと「六種の器官」なんてきれいさっぱり忘れちまって、ただもう素のままの自分になってしまえば冒頭の問答の意味がわかるということになりますね。
今回のエピソードに対して、雪竇和尚は次のようなポエムを詠みました。
―――――つづく
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