「仏」のいる世界に長居してはいけません。
長く居すぎると頭に角が生えてしまうからです。
「仏」のいない世界からは一刻も早く脱出してください。
早く脱出しないと草むらがどんどん深くなって出られなくなってしまうからです。
もし貴方が裸一貫であって余計なことに惑わされることがない境地に達しているのだとしても、たまたまウサギがぶつかっただけの切り株をいつまでも見張っているだけなのかも知れませんので、やはり注意が必要です。
さて、今回はそんな心配のない人の話をしましょう。
長慶和尚と保福和尚の会話です。
長慶:「たとえ阿羅漢(あらかん:煩悩を断ち尽くした修行者)に「貪り・怒り・愚かさ」が残っていたとしても、仏さまがふた通りの説法をしたとは言えないんじゃないかな。……いや、仏さまが何も言わなかったというのじゃないんだ。ただ、ふた通りの説法はしなかったんじゃないかなと思うんだ」
保福:「それじゃあ、仏さまはいったいどういう説法をしたんだい?」
長慶:「耳が聞こえないヤツに言ってもムダだよ」
保福:「なるほど、オマエは二番目の説法をしようというのだな?」
長慶:「それじゃあ、仏さまはいったいどういう説法をしたんだい?」
保福:「茶でも飲んで、目をさまして来い!(笑)」
長慶和尚と保福和尚は、雪峰和尚の下で互いにウデを磨きあった修行仲間でした。
ある日、長慶和尚は「阿羅漢に「貪り・怒り・愚かさ」が残っていたとしても、仏さまがふた通りの説法をしたとは言えない」などと言い出しました。
阿羅漢とは原語のサンスクリットは「アルハット」、中国語では「殺賊」と呼ばれ、八十一種の煩悩を全て断ち尽くし、一切の迷いから離れ、全てを学びつくして修行を完成した人たちのことです。
そんな人たちに煩悩の根本である「貪り・怒り・愚かさ」が残っているワケがありません。
ここで長慶和尚が言いたかったのは、「仏さまはしばしば前と違うことを言い出すことがあったが、決してウソをついたことはなかった」ということです。
法華経には「真実はただひとつ。それ以外はみな真実ではない」と書かれています。
仏さまはその生涯において三百回以上の講演会を実施し、困っている人がいれば教え導き、病状に応じた薬を施しました。
悩みや病気の種類が多かったため、それに対応する説法の種類は万を超えましたが、それらは突き詰めれば「ふた通り」のものではないのです。
維摩経には「仏さまはいつも同じことしか言わない(が、世界中の人々はみな、それを聞いてそれぞれにふさわしい多彩な効果をゲットする)」と書かれています。
ということはつまり、長慶和尚は夢にも仏さまの説法を聞いたことがないのです。
食べ物の話をどれだけしたところで、お腹がいっぱいにならないのと同じことですね。
―――――つづく
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