巴陵和尚の吹毛剣 1/3話(出典:碧巌録第百則「巴陵吹毛剣」)

さて、ここまで九十九ものお話をしてきましたが、いよいよ百話目となる今回が最終回です。(なんとか上手くまとめられるとよいのですが……)

お釈迦様は、究極の悟りを得られてから亡くなられるまでの四十数年間にわたって説法をして回ったということになっていますが、本人はキッパリと「私はこれまでひと言も説法したことはない」と言い切っておられます。

そしてかく言う私もまた、(隠し立てするようなことは何もないのですが)貴方に対して何も説いた覚えはないのです。

こう言うと貴方はきっと「いやいや、『これまで九十九の話をしてきて今回で百回目』と言ったじゃないですか! なんでまた『何も説かなかった』なんて言うのですか!?」とツッコミたくなることでしょうが、それに対する返答は貴方が真に悟るまで保留とさせていただきます。(笑)

果たして私は「説いた」と言うべきなのでしょうか?
それとも「説かなかった」と言うべきなのでしょうか?

とある僧が巴陵和尚に尋ねました。

僧:「伝説の名剣である吹毛剣(すいもうけん)というのは、いったいどんなものなのでしょうか?」
巴陵:「サンゴの無数の枝先が、月の光を受けて輝きあっているようなものだね」

いかがでしょうか?

巴陵和尚は万事この調子で、刃物を使うことなく大勢の人たちの舌を切り落としてグウの音も出させませんでした。

この芸風は彼の師匠である雲門和尚お得意のもなのですが、彼はその芸風を受け継いだ上でさらに磨きをかけていたのです。

私の師匠である雪竇和尚は「ワシは睦州和尚から雲門和尚に受け継がれたあの斬新な芸風が大好きなのじゃ! あれほど弟子たちの抱えた抜きがたい思い込みを打ち砕くのに有効な手段はないぞ!」と仰っていましたっけ。

これまでにも何度か申し上げましたが、雲門一派の和尚の一句には、「天地を覆い尽くす句」、「波に身を任せる句」、「全ての流れを断ち切る句」の三句が宿っているのです。

今回の巴陵和尚の回答も、まさしくそんな感じだとは思われませんか?

浮山和尚は言いました。

「まだ悟れていない者は『相手は何と言ったか』よりも『相手は何を伝えようとしたか』についてよく研究すべきである。悟れたならば、今度は逆に『相手は何を伝えようとしたか』ではなくて『相手は何と言ったか』についてよく研究すべきなのだ」

雲門和尚には優秀な弟子が三人いましたが、この『吹毛剣とは何か?』という質問に対しては皆一様に『終わりだ!』と答えています。

唯一人、巴陵和尚だけが「終わりだ!」よりも高いレベルで答えることができたという次第なのですが、「終わりだ!」と「サンゴの枝先が月の光を受けて輝きあっている」の間にはいったいどれほどの違いがあるというのでしょうか?

二十七回目のエピソードにおけるポエムにおいて、雪竇和尚は「三句を見抜けば弓矢は彼方へ」と詠みました。

もしも今回のエピソードの意味を理解したいというのであれば、余計なことを考えるのをきっぱりとやめるしかありません。

「サンゴ? 月? 枝先?」などと考え込んでしまうと、答えは遠のくばかりです。

―――――つづく


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