昔のインドでは、死んで火葬にしたり墓標を建てたりするのは偉い人だけで、それ以外の人は死ねば死体捨場におっぽり捨てられるだけでした。
ある時、この死体捨場に七人の女性哲学者たちがやってきて問答を始めました。
ひとりが転がっている死体を指さして、「死体(ボディ)はここにあるわね。それでは「人間」はどこにいるのかしら?」と問を立てたところ、リーダー格の女性哲学者は即座に「それがいったいどうしたというの?」と言ったとか。そしてその途端、居合わせた全員が「何もたさない、何も引かない」という悟りを得たそうです。
漸源くんは道吾和尚の訃報に接し、当時身を寄せていた寺の住職である石霜和尚に、道吾和尚を殴ってしまったエピソードをこぼしました。
すると石霜和尚は言いました。
「そりゃ、「生」とも「死」とも言わんなぁ・・・」
漸源くんは言いました。
「いやいや、なんでまた「言わない」んですか?」
石霜和尚は答えました。
「言わない。言わないんだよ!」
漸源くんはそれを聞いて遂に真実を悟り、翌日、鍬を担いでお堂に上がり込むと東から西へ、西から東へと行ったり来たりし始めました。
石霜和尚が、「・・・オマエ、何やっとるんじゃ?」と尋ねると、漸源くんは答えました。
「死んでしまった師匠の遺骨を探しているんですよ!」
石霜和尚は言いました。
「オマエ・・・ 海は大荒れで波が天まで届きそうだというのに、いまさらそんなものを探してどうしようというのじゃ?」
漸源くんは言いました。
「ベストを尽くすのです! それしかないんです!」
その話を聞いた孚(ふ)上座は言いました。
「なんだい、遺骨はちゃんとあるじゃないか。」
ちなみに、道吾和尚が火葬にされた時、頭蓋骨のテッペンに金属光沢を放つ骨があるのが発見されたのだそうです。その骨を叩いてみると、ちゃんと金属音がしたとか。
雪竇和尚は、「ベストを尽くすのです! それしかないんです!」のくだりを語る時、いつも「ああ、なんということだ・・・」とつぶやきました。読者の皆さんは、これはつまり、「死んだ」ことを悲しんでいるのか、「生きた」ことを喜んでいるのか、いったいどちらだと思いますか?
私? 私はそのどちらもだと思っていますよ。(笑)
<生か? 死か? 完>