お経のパワー 2/3話(出典:碧巌録第九十七則「金剛経軽賤」)

「金剛」とは、どんなことがあっても破壊されることがないないもののことです。 逆に「金剛」は、ありとあらゆるものを打ち砕くことができます。つまり、「金剛般若経」という題名は、「無敵の真理」を「金剛」にたとえてつけられたというわけなのです。

さて、それでは「般若」とは何でしょうか?

「般若」には三種類あります。「実相般若」、「観照般若」、「文字般若」の三つです。

「実相般若」とは、「真実の智慧」そのもののことです。アナタの足の真下にあって、その上にあるものを成立させているものが、つまりこれです。

「観照般若」とは、「真実の世界」そのもののことです。日中あちこち動き回って物音を立てたり、見たり聞いたりしているもの、それがつまりこれです。

「文字般若」とは・・・まぁ、いわゆる「文字」のことです。

ここで質問です。

今しゃべっている私は「般若」でしょうか?

今聞いているアナタは「般若」でしょうか?

かつて天台和尚はこうおっしゃいました。

「人間というものはな、誰でも皆、自分だけの「お経」ってヤツをそれぞれの胸に抱きしめているもんなんじゃよ。」

また、こうもおっしゃいました。

「ワシぐらいのレベルになるとな、もはやテキストなんて不要で、やることなすこと全てが「お経」になるのじゃよ。」

もし、「お経」がそのようなものだとするならば、それは「書かれていることが実現できる」などという段階をはるかに突破して、もはや超人的というほかないハタラキすら、息をするのと同じようにできるようになるハズです。

そうそう、こんな話をご存知ですか?

昔、龐居士(ほうこじ)という人がこの「金剛般若経」の講義をしている人に向かって、こんな質問をしたことがあるそうです。

龐居士:「センセイ、質問があります!」
講師:「なんじゃ? 何でもきいてよいぞ。」

龐居士:「今の講義によれば、自我が消滅し、同時にそれと対立していた自我以外のものも滅び去ったとのこと。アナタとワタシの区別が消滅した今、いったい全体、誰が誰に向かって講義していることになるのでしょうか?」
講師:「・・・ワシは書いてあることを説明するだけじゃ。ムズカシイことをきくんじゃない!」

龐居士:「アナタはワタシであり、ワタシはアナタである。たったそれだけのことじゃないか! そんなこともわからないようなら、講師なんてやめちまえ! いいか? 「金剛般若」の本体にはチリひとつ付け加えることだって不可能なんだ。そこに書かれていることですら、本来は余計なことだ。」

もう一度言いますが、「お経」を正しくマスターすることができたならば、「本来あるべき世界」を出現させて「本当の自分」を取り戻すことなど、チョロイもんです。

そしてまた、「本来あるべき世界」や「本当の自分」などというものは、「お経」を正しくマスターした人にとっては、微塵に粉砕するべき対象に過ぎません。ありとあらゆる神や仏、学説や理論などといったものが、いかに「無用の長物である」かを、徹底的に理解しているからです。

ところが最近の連中は、「いやぁ、今日は一日よくがんばった! こんなにたくさんのお経をマスターしたぞ!」というので話を聞いてみると、単にテキストを何行か丸暗記しただけだったりする。ああ、なんとしょうもない・・・

―――――つづく


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