「金剛」とは、どんなことがあっても破壊されることがないないもののことです。 逆に「金剛」は、ありとあらゆるものを打ち砕くことができます。つまり、「金剛般若経」という題名は、「無敵の真理」を「金剛」にたとえてつけられたというわけなのです。
さて、それでは「般若」とは何でしょうか?
「般若」には三種類あります。「実相般若」、「観照般若」、「文字般若」の三つです。
「実相般若」とは、「真実の智慧」そのもののことです。アナタの足の真下にあって、その上にあるものを成立させているものが、つまりこれです。
「観照般若」とは、「真実の世界」そのもののことです。日中あちこち動き回って物音を立てたり、見たり聞いたりしているもの、それがつまりこれです。
「文字般若」とは・・・まぁ、いわゆる「文字」のことです。
ここで質問です。
今しゃべっている私は「般若」でしょうか?
今聞いているアナタは「般若」でしょうか?
かつて天台和尚はこうおっしゃいました。
「人間というものはな、誰でも皆、自分だけの「お経」ってヤツをそれぞれの胸に抱きしめているもんなんじゃよ。」
また、こうもおっしゃいました。
「ワシぐらいのレベルになるとな、もはやテキストなんて不要で、やることなすこと全てが「お経」になるのじゃよ。」
もし、「お経」がそのようなものだとするならば、それは「書かれていることが実現できる」などという段階をはるかに突破して、もはや超人的というほかないハタラキすら、息をするのと同じようにできるようになるハズです。
そうそう、こんな話をご存知ですか?
昔、龐居士(ほうこじ)という人がこの「金剛般若経」の講義をしている人に向かって、こんな質問をしたことがあるそうです。
龐居士:「センセイ、質問があります!」
講師:「なんじゃ? 何でもきいてよいぞ。」龐居士:「今の講義によれば、自我が消滅し、同時にそれと対立していた自我以外のものも滅び去ったとのこと。アナタとワタシの区別が消滅した今、いったい全体、誰が誰に向かって講義していることになるのでしょうか?」
講師:「・・・ワシは書いてあることを説明するだけじゃ。ムズカシイことをきくんじゃない!」龐居士:「アナタはワタシであり、ワタシはアナタである。たったそれだけのことじゃないか! そんなこともわからないようなら、講師なんてやめちまえ! いいか? 「金剛般若」の本体にはチリひとつ付け加えることだって不可能なんだ。そこに書かれていることですら、本来は余計なことだ。」
もう一度言いますが、「お経」を正しくマスターすることができたならば、「本来あるべき世界」を出現させて「本当の自分」を取り戻すことなど、チョロイもんです。
そしてまた、「本来あるべき世界」や「本当の自分」などというものは、「お経」を正しくマスターした人にとっては、微塵に粉砕するべき対象に過ぎません。ありとあらゆる神や仏、学説や理論などといったものが、いかに「無用の長物である」かを、徹底的に理解しているからです。
ところが最近の連中は、「いやぁ、今日は一日よくがんばった! こんなにたくさんのお経をマスターしたぞ!」というので話を聞いてみると、単にテキストを何行か丸暗記しただけだったりする。ああ、なんとしょうもない・・・
―――――つづく