太鼓がドーン!(出典:碧巌録第四十四則「禾山解打鼓」)

いいですか、皆さん。

ものごとを学んだり習ったりすること、つまり世間一般でいわれるところの学問を総じて「聞」と呼びます。

そして、それを乗り越えた段階である「絶学」は、「習学」よりも究極の境地に近いので、「隣」と呼ぶことができるでしょう。

学問を究めて、ついには「無学」の境地に達する、これを「絶学」というのです。

言葉の表面からでも深く悟り、奥深くまで分け入って、しかもその境地に執着しない。
それが「絶学」です。

学問を積み重ね、膨大な経典の本文はもとより、細かい解説まで全部学んでしまった。
もはや全てを学び尽くしてしまった。
こういう人こそ「絶学」であり、「無為無事の人」というにふさわしいといえます。

そんな「絶学」の境地に達して、そこではじめて「道」に近づいたといえるでしょう。

そして、「習学」はおろか「絶学」をも超越した境地、これを「真過」と呼ぶのです。

さて、ある僧が禾山(かざん)和尚と会っていて、「真過」の話になった時の問答です。

僧 :「その「真過」って、要するにどういうことなんでしょうね?」
禾山:「太鼓がドーン!」

僧 :「・・・質問を変えます。「真の悟りを得る」とは、つまりどういうことなのでしょうか?」
禾山:「太鼓がドーン!」

僧 :「・・・質問を変えます。「心でも仏でもないもの」、それはいったい如何なるものなのですか?」
禾山:「太鼓がドーン!」

僧 :「・・・オレのことナメてんのか?このジジイ!!」
禾山:「太鼓がドーン!!」

<太鼓がドーン! 完>

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