彼はあるテキストの翻訳作業を指示され、毎日訳したり書き写したりの作業に首っ引きとなりました。
意味を考え、自分たちの言葉に訳し、書き写す毎日が続きます。
するとなんということでしょう。
肇法師の心に大きな変化があらわれてきたではありませんか!
「オレは今の今まで、「老子」や「荘子」の思想こそ最高だと思って一切疑うことがなかった。
あの世界の中に浸りきり、遊泳している時、それこそが私にとっての至福の時であったのだ。
ところがどうだ。
この文章を読めば読むほど、こちらの方が良く思えてくるではないか!
まさか、「老荘」では物足らなく思う時が来るとは・・・
さらば「老荘」!
オレはこっちに宗旨替えする!!」
で、遂に「肇論」という論文集まで書き下ろしてしまったとのことです。
彼に人生観が変わるほどの衝撃を与えたもの、それが「維摩経」と名づけられたテキストだったのです。
老子や荘子では「天地は虚無から発生した。人間もまた同じである」と教えますが、つまるところ「世界はひとつ」というところで話は終わりです。
これが肇法師にかかると「オレこそが世界なのだ!」という方向に話が向きます。
彼は自らの論文の中で次のように書いています。
「本当に悟りきった人はなんのわだかまりもなく空洞のように風通しよくカラッポで、固定したスタイルなどは持っていないものだ。
そして、自分が作り出した物事が世界を構成しており、世界とは自分のことに他ならないことをよく理解している。そんな人物こそ、聖人と呼ぶべきなのだ。」
もしも彼の理論が正しいとするならば、「神」と「人」に違いはないということになってしまいます。
あるいは「表面上は色々違って見えるけれども、本質的なところでは皆同類」ぐらいに考えるべきなのでしょうか?
―――――つづく
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