もしも南泉和尚の悟りにあやふやなところがあったとしたならば、ここまでスッパリとやれずに何かしらグダグダなことになったことでしょう。
実は、この手の話は決して見た目ほど簡単な話ではなく、一筋縄でいくものではないのです。
見る目のある人にとっては極上の薬になりますが、そうでない人にとっては猛毒です。
昔の人も言っているではありませんか。「物ごとを表面的に見たのでは常識の範囲を出ることはないが、内面的に見たが最後、もう何がなんだかわからない。」、と。
巌頭和尚はこのエピソードに対して次のようにコメントしています。
「さすがは南泉和尚。チラッと手近なものに言及するだけで、イナズマのように鮮やかに決めたな!」
確かに南泉和尚は猛獣を押さえ込み、ひと目で龍とヘビを区別する能力の持ち主と言えましょう。
こんなもの人に教わることなどできやしません。自分なりに考えて理解するのでなければとてもおぼつかないでしょう。
よく言うではないですか。「真実の道は聖人ですらも伝えてこなかった。修行者は必死にそれを掴まえようとするのだが、その様はまるで猿が自分の影を掴まえようとしてクルクル回っているのと変わらない。」、と。
ほら、雪竇和尚もこんなポエムを詠んでいます。
見る、聞く、感じる、考える。これら全ては同じもの。
山も、河も、鏡の中にあるのではない。
月も落ちた後のしばれる冬の夜、池にさえざえと映る自分の姿を見ているのはいったい誰だい?
・・・「誰」とか言われても。
掛け布団の裏側が破れているかどうかなんて、一緒の布団で寝てみなければわかるもんじゃないですよね。(苦笑)
仮に南泉和尚が寝言をつぶやいているとするならば、雪竇和尚は大声で寝言を叫んでいる、とでもなりますか。
どちらも夢を見ている、といえども、なかなかいい夢を見ているようですね。
もしも鏡の中を覗き込んで悟るというのであれば、その悟りは鏡の中から出ることができません。
山河大地、草木叢林、広大な世界をいちいち鏡に映して見るようなことをする必要はないのです。山は山、水は水なのですから。
法華経でも「あらゆるものごとは、なんらの作為なく既に然るべき位置にある」と言うではありませんか。
さて、ここで賢明なる読者の皆さまに質問です。
「鏡の中にない」というのであれば、山や河はいったいどこにあるのでしょうか?(雪竇和尚は優しい方なので、ポエムの中で「月も落ちた後のしばれる冬の夜」などとほぼ答えに近いことを言ってしまっておりますが・・・)
ポエムには「池にさえざえと映る自分の姿を見ているのはいったい誰だい?」ともありますが、月のない夜にどうやったら水面に姿を映すことができるのでしょうか?
・・・なにも池まで行かなくたって、いや、冬や月が落ちるのを待たずとも、今考えれば充分おわかりになりますよね。w
<夢物語 完>
☆ ☆ ☆ ☆
※超訳文庫が電子書籍化されました。第1弾は『超訳文庫アングリマーラ Kindle版』(定価250円)です。どうぞよろしくお願いいたします。〈アングリマーラ第1話へ〉