死にきった人 2/3話 (出典:碧巌録第六十一則「趙州大死底人」)

趙州和尚が「完全に死にきった人の方がイキイキしている」と言えば、投子和尚は「夜間外出禁止でも、夜明けには到着していなければならない」と答える。
さすがは達人同士、電光石火とはまさしくこのことですね。w

「完全に死」にきってしまえば仏教もへったくれもないわけで、もはや宗教的理想と現実とのギャップにアレコレ思い悩むこともありません。ただ全力を出し切ったあとの安らぎがあるのみ。

雲門和尚はこれを「平地上は死人だらけ、イバラの森をくぐり抜けてこそ生者!」と表現しました。人はただ生まれただけでは「生きている」ことにならないというのですから、なんともキビシイご指摘です・・・

だというのに、最近の連中ときたらそのことに気づくことすらありません。
借り物の知識や他人の言説の受け売りばかりでは、折角この世に生を受けた甲斐がないというのに・・・

大潙和尚はこのような人たちのことを「あきめくら」と呼び、五代目禅宗マスターの弘忍和尚は「死にぞこない」と呼びました。

人生の終わりには必ず「死」が待っています。
つまり、「生きる」とは「死ぬ」ことであり、「いかに生きるか」と「いかに死ぬか」は同義なのです。

そう考えれば、人生は何をするのも命がけです。
死んで死んで死に尽くした上に「生」を輝かさなくてどうするのでしょうか?

永光和尚は言いました。

「崖にしがみついている手を放して飛べ!
そしてそこから甦ることができたなら、ワシはオマエを一人前と認めよう。
いや、ワシがわざわざ認めなくても、そんなオマエの実力は黙っていても天下に轟くことだろう。」

冒頭の問答における趙州和尚の質問の趣旨は、まさしくこれですね。

首山和尚は言いました。

「本当に親身になってやろうというのであれば、「答え」を求めるために「質問」してはいけない。
なぜか? 「質問」は「答え」の中にあり、「答え」は「質問」の中にあるからだ!」

これが投子和尚でなければ冒頭の趙州和尚の質問にうろたえてグダグダになったことでしょうが、そこは「やり手」の投子和尚、質問されるなり直ちに趣旨を悟って対応したというわけです。

―――――つづく

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