このエピソードに関し、私の師匠の雪竇和尚は次のようなポエムを詠みました。
生ききったなら死と同じ。
わざわざ試すまでもない。
「夜明けに到着」なんて仏でもムリ。
いらんことをする奴ら、今も昔も星の数。
和尚は「生ききったなら死と同じ」などとおっしゃいますが、「死にきったなら生と同じ」でもあるのですから、わざわざ死ぬ必要はないのではないでしょうか?
雲門和尚は言いました。
「死人を殺し尽くした時、そこには生者がいる。
死人を生かし尽くした時、そこには死者がいる。」
趙州和尚はわざわざ飲み合わせの悪い薬を投子和尚に飲ませるようなマネをして彼を試しましたが、「完全に死にきった人がイキイキした」ことも「夜間外出禁止なのに夜明けと同時に到着した」ことも、歴代の禅の師匠や仏たちが実践できたのかといえば怪しいものです。(もちろん私にもムリです)
お釈迦様や達磨大師ですらも、これに関しては一筋縄ではいかぬハズ。
だから「ダルマがそれを知っていたことは認めるが、理解していたかというと果たしてどうだか・・・」などと言われたり、雪竇和尚に「わざわざ砂をまくような余計なことはするな!」と言われたりしてしまうんですよね。
長慶和尚は、ある僧侶に「正しい仏教指導者のあり方というのはどのようなものなのでしょうか?」と尋ねられ、「わざわざ砂をまくようなことはしないことにしているのだ!」と答えたとか。
で、それを聞いた保福和尚は、「ああ・・・もうそれ以上まいてはいけない!」と言ったとか。
歴代の禅の大師匠たちは後進を指導するために必死になって棒を揮い喝をくだし、払子を立てたり床を叩いたり、神通力を見せつけたりしてきたわけですが、これらがことごとく「砂をまく」ような余計なことだとするならば、我らはいったいどうしたらよいのでしょうか?
賢明なる読者の皆さま、答えをご存知でしたら是非ご教示願いたいものです。(苦笑)
<死にきった人 完>
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