ある時、雪竇(せっちょう)和尚は講義の中で「楞厳経(りょうごんきょう)」からブッダと弟子のアーナンダの問答を引用しました。
ブッダ:「なぁ、アーナンダ、いわゆる知覚や感覚、例えば「見る」という行為が存在することによって対象となる物が存在するとしたならば、私が見ることができるものは、そのままオマエも全部見ることができるだろう。
で、私の視界を追体験することが「私を見る」ことだとオマエが考えているのなら、なぜオマエは「私が見ない」時に「私が見ない」でいることを見ようとしないのだ?
もしも「見ない」ということを「見る」ことができるなら、それはもう「見ない」ということにはならない。
もしも「「私が見ない」から見ない」というのであれば、「見ない」行為の対象となる物は存在しないということになる。
そうは思わんかね?」
アーナンダ:「この世で「見る」ことができるものには全て名前が付けられていますが、「何ものにもよらない根本の真実」はそうではないのだとか。世尊さま、この際ですからズバリ教えてくださいませ。
あなたがずっと見つめ続けていらっしゃる、その「何ものにもよらない根本の真実」とは、いったい何であるのかを!
そうすれば、私もまた世尊さまと同じ境地を「見る」ことができるようになるでしょう。」
ブッダ:「・・・私には、香台が見えている。」
アーナンダ:「私にも今、香台が見えます! これで私も仏の境地ですね!?」
ブッダ:「それじゃ、もし私が香台を見ないと言ったらどうする?」
アーナンダ:「その時は私も香台を見ません! それで私も仏の境地です!!」
ブッダ:「私はもちろん、私が「見ない」でいることがわかっているし、オマエも当然、オマエが「見ない」でいることはわかっている。
それでは、私とオマエ以外の、この場にいない人がいったい何を「見ない」でいるのかわかるかね?
いったいどうやったら、それを知ることができるのだろうか?」
私の先輩は、「だから言ったろう? 言葉では伝えられないんだって!!」、と仰っていましたが、確かにまぁ、そんな感じですね。(苦笑)
―――――つづく
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