「見ない」ということを見れば 2/3話(出典:碧巌録第九十四則「楞厳経若見不見」)

ブッダは、「もしも「見ない」ということを「見る」ことができるなら、それはもう「見ない」ということにはならない。もしも「「私が見ない」から見ない」というのであれば、「見ない」行為の対象となる物は存在しないということになる。」などと仰いますが、とりつく島もない、というか意味不明にも程があり過ぎて、コメントのつけようもありません・・・

 雪竇和尚はこのエピソードに対して以下のようなポエムを詠みました。

「オレは確かにこの目で象や牛を見た!」・・・って言うじゃない?

でも、それって単に視神経からの信号に脳が反応しただけの幻影ですから! 斬(以下略)!!

え? そういうオマエはどうなのかって?

・・・拙者はもちろん、歴代の師匠や先輩たちも皆、その域を出られていませんから! 切(以下略)!! 

・・・ブッダの境地は無数の国土を超えて遥かに遠い。

誰もが皆、「道半ば」に過ぎないということは、よくよく自覚しておかんとな・・・

目の見えない人が大勢で象の色んな部分をなで回し、それぞれが「象とはこういうものだ!」と全然違うことを言うというネタは涅槃経に収録されています。

これはそれを踏まえたものですね。

以下、仰山和尚の問答をご紹介します。

僧:「「究極のところ「禅」とは、そして「人の道」とは如何なるものなのでしょうか?」という問いに対して、大きな丸を描いて、その中に「牛」と書いてみせた人がいるそうですが、こりゃまたいったいどういう意味なのでしょうか?」

山:「全くもってつまらんことをするヤツがおるもんじゃな。

物事をちゃんと理解している人にとっては、そんなもの人から教えてもらうものではないことぐらい常識中の常識じゃ!

それすらわかっていないということは、大事なことは何ひとつわかっていないということになる。

逆に聞こう。

オマエがこれまでに尋ね歩いた師匠たちの中で、「ここがオマエの仏性だよ」と言って身体の一部をつまんでみせてくれた人が一人でもおるかね?

また、そんなものを言葉で説明しようとすることの是非はどう思う?

言葉ではなく伝える方法があるのではないかと思うか?

そもそもそんなことを考えること自体の是非はどうか?

もしも「言葉で説明可能です」というのであれば、それは目の見えない人が象のシッポをなで回してコメントするのと同じじゃ!

「そんなこと不可能ですので黙っているべきです」というのであれば、それは目の見えない人が象の耳をなで回してコメントするのと同じじゃ!

「言葉ではなくても伝える方法があります」というのであれば、それは目の見えない人が象の鼻をなで回してコメントするのと同じじゃ!

「そういう議論をすること自体に意味があるのです」というのであれば、それは目の見えない人が象の足をなで回してコメントするのと同じじゃ!

「そういう議論に意味なんてないですね」というのであれば、それは象を空中に投げ上げるのと同じじゃ!

まだわからんか?

この手の議論は全て、目の見えない人が大勢で象の色んな部分をなで回し、それぞれが「象とはこういうものだ!」と全然違うことを言うようなもんじゃ。

まず「象」を手探りするのを止めなさい!

それから五感に頼りすぎるのも頼らなすぎるのも止めなさい!

禅の中国における第六代伝承者の慧能和尚も仰っていたじゃろう?

「真実の智慧(菩提:ボーディ)」を譬えて「菩提樹」などといったりするが、言うまでもなく「真実の智慧」は樹木ではない。

また「鏡」に譬えたりもするが、単なる反射鏡が「真実の智慧」のハズがない。

「特定の実体を持たない」ことこそが「真実の智慧」の特徴なのであるから、わずかなチリやキズであっても絶対につくハズがない。」、と。

―――――つづく

☆     ☆     ☆     ☆

※超訳文庫が電子書籍化されました。第1弾は『超訳文庫アングリマーラ Kindle版』(定価250円)です。どうぞよろしくお願いいたします。〈アングリマーラ第1話へ〉