「見ない」ということを見れば 3/3話(出典:碧巌録第九十四則「楞厳経若見不見」)

慧能和尚は、こうも仰られています。

「「道」というものに特定の形はない。そして「智慧」とは「道」のことに他ならない。これを理解することこそが「真実の智慧」なのだ!」

本当に「見る目」のある人は、「象」を見た時にその一部分ではなく「全象」つまり象という存在全体を見ます。

「仏性」についても同じことです。

「全牛」とは「荘子」に収録されている料理人の丁さん(これが「包丁」の語源とされています)の言葉に由来します。

<包丁さん談>

「オレが初めて牛を丸々一頭さばくことになった時、オレはムネ、モモ、頭といったそれぞれの部分を見るのが精いっぱいだった。

それぞれの部分の境目を見極め、筋に沿って慎重に刃を進める修行を積むこと三年、オレは遂にそれぞれの部分を意識せず、「牛」全体を意識しながらさばくことができるようになった。

この境地に至ると、力をほとんど使わなくてもスイスイとさばくことができ、実際にはそれぞれの部分に集中しながら刃を進めているのだが、最後に頭を挙げると一斉にバラバラと各ブロックが解けて落ちるようになるのだ。
これをオレは「全牛」の境地と呼んでいる。

この刃を見てみろ!
あれから十九年も牛を解体し続けているが、その間一度も研ぎ直していないにも関わらず、一切刃こぼれなく、まるで研ぎたてのような状態を保ったままだろう?

これこそが「全牛」のハタラキなのだ!!」

 雪竇和尚は言いました。

「「全牛」の境地は確かに素晴らしいものだ。だが、「全牛」だろうが「全象」だろうが結局は視神経からの信号に脳が反応しただけの幻影に過ぎない。私だけではなく、歴代の師匠や先輩たちも皆その域を出られてはおらんのだ。」

「ブッダの境地は遥かに遠く、無数の国土を超えた先にある」のだとも言われましたが、「チリひとつの中に三千大千世界が入っている」という見地に立った上で、それがたくさん集まった国土をさらに超え、超えても超えてもまだ「道半ば」なのだと・・・

まだゴールに到達できていないことはわかりますが、「半ば」といっても五合目なのか八合目なのか、はたまたまだ一合目にも達していないのか、いったいどうやったらわかるのでしょうか?

恐らくですが、これこそ「お釈迦様もご存じない」ってヤツなのではないかと。

お釈迦様がわからないことを私なぞが説明できるわけがないですよね。

というわけで、次回、また別の話にてお会いしましょう!! (^^;)

<「見ない」ということを見れば 完>

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