生まれたばかりの赤ん坊 2/6話(出典:碧巌録第八十則「趙州孩子六識」)

だからといって、幼児退行してバブバブいうのが真実の「道」なのかといえば、それはそれで違います。
習慣によって染みついた分別取捨の気持ちから離れて「無心」になることができている、という点をもって「生まれたての赤ん坊」を讃えているわけなので、これは譬え話として受け取るべきです。
 
とある僧が趙州和尚に尋ねました。
僧:「生まれたばかりの赤ん坊にも六識(五感+意識)はありますかね?」
州:「激流にボールを打ち込むようなもんじゃな!」
 
その僧が今度は投子和尚に尋ねました。
僧:「「激流にボールを打ち込むようなもの」と言われたのですが、いったいどういう意味なのでしょうか?」
子:「生きている限り、意識の流れは止まらないのだよ。」
 
仏教でもテキスト研究を主体とする学派の人たちは、この六識こそが人間の存在そのものであり、それがなければ、「山」や「川」、「太陽」や「月」に至るまで全ての物ごとは成立しないとまでと考えています。
六識が生じるが故に人は生まれ、六識が滅びるが故に人は死ぬのだと。
 
法眼和尚も「まず心があって一切が生じ、意識があらゆる存在を織りなしてゆくのだ!」とおっしゃっています。

普通はこの六識だけで生活していけますが、仏教ではさらに末那識(まなしき)と阿頼耶識(あらやしき)を加えて八識とし、それによって智慧の究極のかたちである四智(大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智)が成立すると考えます。
(まぁ、なにやら難しげな名前は後からつけただけなのでどうでもよいですが)

「根・塵・識」の三つに分ける考え方もあります。

「塵」とはつまり六識が生み出す膨大な妄想の数々のことですが、いうまでもなく塵自体に「オレは塵だ!」と認識する作用はありません。
五感(=根)の刺激を受けた「識(意識)」こそが、それを分別しているのです。

この、分別を司り、通常我々が「意識」だと思っているものを、五感に次ぐものという意味で「六識」と呼びます。
そして「七識」が末那識、「八識」が阿頼耶識なのですが、この阿頼耶識こそが智慧の源であり、一切の善悪もここから生じます。

末那識は最下層の阿頼耶識と表層意識である六識の間を取り持って、六識からの情報を阿頼耶識に伝え、阿頼耶識からの応答を六識にフィードバックしています。

実はこの末那識の働きこそが人間の意識を四六時中わずらわせている「煩悩」の正体なのです。

―――――つづく

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