・・・というようなことは我らにとっては「お約束中のお約束」です。
ですから、この僧侶もそんなことはハナから充分承知の上で、「生まれたばかりの赤ん坊にも六識はありますかね?」などというカマトトをかましたことになりますね。
生まれたばかりの赤ん坊だって、眼は見えているでしょうし、音も聞こえているハズですが、それらの情報を分析・判断する「意識」がまだあまり発達していないため、「取捨・分別」が起こらないというだけのことです。
さて、「真実の道」を学ぼうとするのであれば、赤ん坊のこの部分は大いに真似しなければなりません。
そうすることで、世間的な栄誉や功名、環境・習慣に由来する数々の不満などの事柄に逐一心が動かされることがなくなるからです。
様々な状況を見聞きしながら、あたかもまるで「見えていない・聞こえていない」かのごとくに全く動じない。
世間から「ひょっとしたらこの人は何かの病気、いや、単なるバカなのかも・・・」と思われてこそ、ホンモノの禅の達人です。
石頭和尚は言いました。
「着物を頭からひっかぶってオール・ジ・エンド。ワシゃもう何も知らんもんね!」
このぐらいの境地であって、ようやく少しは世の中の役に立てる感じでしょうか。
とはいえ、これは字面で理解できるほど簡単なものではありません。
「山」が山であって「水」が水である、そこに何らの他意も遠慮もありません。
太陽や月が一度も止まることなく上り下りを繰り返し続けているのそうです。
彼らは決して「ボクらは見る人によって色んな形状に見えるからね!」などと自覚したりもしていないでしょう。
逆に、徹底的に「無心」であるからこそ、あらゆるものにその恩恵を及ぼすことができ、尽きることがありません。
もしこれが「有心」であったなら、とても長くは続けられないハズ。
「その道の達人」と呼ばれる人たちも皆、この境地に達しているのです。
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