生まれたばかりの赤ん坊 5/6話(出典:碧巌録第八十則「趙州孩子六識」)

前述の問答において曹山和尚は「浅瀬」という言葉を使いましたが、これは意識の重層構造を水に譬えてボケをかましたものです。

楞厳経(りょうごんきょう)には、「感覚的な意識である第六識と、根源的な意識である第八識が一体化したところが究極の「識」である。あたかも水を湛えて静まり返ったところにさらに水を積み重ねたようなものだ」と書かれています。

また、「対象となるものが存在するから執着心が生まれ、執着心は次々と妄念を生み出す。そして次々と絶え間なく生み出される妄念は激流となって渦巻く」とも。

先ほど、華厳経には「最高レベルに達した菩薩は、一見「役立たず」とも思える状態になる。しかし、一切の損得に動かされなくなった彼にとって、ホコリ一粒の中に大法輪を回すことなど朝飯前なのだ!」と書かれていると言いましたが、たとえこの境地にあったとしても、妄念の激流に押し流されていることに違いはないのです。

真の自由を得たいというのであれば、この激流を抜け出して対岸に渡り終わらなければなりません。

潙山和尚と仰山和尚の問答をご紹介しましょう。

潙:「ところでオマエはどんな感じじゃな?」
仰:「何の話でしょうか? アチラの話でしたら私にはさっぱりわかりませんし、コチラの話でしたらボトルの水を別のボトルに移し替えたようなものですよ。」

もし読者の貴方がこの境地に達しておられるのだとしたならば、貴方はまさに「師匠」と呼ばれる資格があります。

趙州和尚は「激流にボールを打ち込むようなもの」だと仰いました。

激流にボールを打ち込んだならどうなるか?
既にものすごい勢いで流れている水にボールを打ち込むわけですから、瞬きする間もなく視界から消えてゆくことは疑いないところです。

楞厳経には「どんな激流であったとしても、見方次第では止まって見える」とも書かれています。

また華厳経には「大雨の後の濁流は思い思いに流れ流れて止められない。世の中もまた、それと似たようなものである」と書かれています。

趙州和尚の発言は、こういった角度から考えれば、それほど突拍子もないことを言っているのではないことがわかります。

―――――つづく

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