国師に会いに 3/3話(出典:碧巌録第六十九則「南泉拝忠国師」)

雪竇和尚はポエムの中で「矢は真っ直ぐに」と言っていますが、真っ直ぐ進んだのでは樹の背後に隠れたサルには当たりません。

その後すぐに「樹をめぐる」と言っているのに、なぜ「真っ直ぐに」などと?

「「樹をめぐる」っていうのはつまり、「円相」を暗示しているんじゃない?」、などと言う人もいますが、仏教のことを何もわかっていないと言うしかないですね。

もっと言えば、「真っ直ぐ」の意味もわかっていない。

冒頭のエピソードの和尚三人は、芸風こそ違いますが、みなとっても「真っ直ぐ」だという点では完全に一致しています。

これは例えば、無数にある川の流れが、ひとつの大海に行き着くようなものです。

だからこそ、南泉和尚は「そういうことであれば、行くのはやめにしよう。」と言ったのです。

このエピソード自体、パッと見は完全に頭がおかしいとしか思えないものですが、そう決めつける前に、果たして自分の頭がおかしくないことをどうやって証明すべきか考えてみなければなりません。

慧能和尚の師匠(つまり中国における仏教五代目伝承者)である法演和尚は言いました。

「ある者は智慧の松明で相手を煌々と照らしだし、ある者は無数の徳目で自らの全身を飾り立てる。」

「女性のように立ったままでお辞儀」をそのままの意味では受け取らず、「円相」といってもそのままの意味では受け取らない。

はて、それではいったい何をどのように理解したらよいのでしょうか?

雪竇和尚が「当てた者は誰もいない」と言ったのは、まさしくそこを指摘しているのです。

南泉和尚は「行くのはやめにしよう」といいました。
だから「帰ろうか? 帰りましょう!」なのです。

「国師に会いに行く道」、つまり仏教の真髄への道のりはチリひとつないかわりに先人たちの足跡もありません。

だから南泉和尚は「行くのはやめにしよう」と言い、雪竇和尚も「帰りましょう」と言うのですが、ずっと平坦で障害物もないのだったら、散歩がてら行ってみたらいいような気もします。(苦笑)

賢明なる読者の皆さん、その辺りいかがお考えでしょうか?

「よくわからないよ」というのであれば、まずは自分の足元をよく見るところから始めてみることをオススメして、この話を終わらせていただきます。

<国師に会いに 完>

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